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“闘将”が遺した言葉 親友、ノムさん、巨人監督就任要請…

<楽天練習>野村克也氏(右)とブルペンで談笑する星野仙一監督(2012年)
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 闘将の死去から1週間が過ぎた。生前を知る者は衝撃、悲しみ、喪失感…、いくつもの感情に支配されたままだ。

 「この歳になったら、死ぬときのことは考えるよ」。そう話したのは07年。北京五輪の日本代表監督に就任した直後だった。この頃から「死」や「人生」というワードが多く聞かれるようになった。決して口に出すことはなかったが、すでに健康不安を感じていたのだろうか。“仲良し内閣”と揶揄する声があることを知りながら、大学時代からの親友である田淵幸一氏、山本浩二氏をコーチに招聘したのも、「最後は一緒のユニホームを着たかったんだ」との強い思いがあったからだ。ちなみに、同年1月の就任会見で、真っ先に質問に立ったのはフジテレビアナウンサーで田淵氏の長男・裕章氏だった。

 「大体、人生は悲しみ、悔しさが7割、喜び、幸せが3割とよく言われるけど、俺はその逆で生きてきたからな。これからも、そのつもり」。そう話したかと思えば、こうも言ったことがある。05年に巨人から監督就任要請を受けたが、巨人OB連の猛反発もあって実現はしなかった。数年後、「(要請は)野球人としてめちゃくちゃうれしかった。巨人のOBたちはかわいそうに…。この人たちはひがみの人生。あんたたちがしっかりしないから、部外者の俺に声がかかったんちゃうの?その時、俺は決意したんだ。他人からひがまれる人生を送ってやろうとな」――。

 北京五輪監督として、07年2月には12球団キャンプを視察。楽天・野村克也監督と話し込んだ後に、「野球から健康法まで、あの人としゃべってると楽しいな。よう食べるし、あと10年たって、俺もあれぐらい元気だったらいいな」としみじみと話したことも。当時、野村監督は71歳。星野監督は60歳だった。

 グラウンドを離れれば、好々爺(こうこうや)となり、家族のこともよく話してもらった。

 「子供は作った方がええ。絶対に女の子がええ。女は結婚しても、せっせと実家に帰って来るし、電話もくれるしな。ただ、最近になって娘が言いよるんや。“現役時代は散々、ママを泣かせて”って(苦笑)。でも、最後も娘に看取ってもらわないかん」

 「はよう、孫(智大君)の顔が見たい。もうすぐしたら、キャンプ地にビデオが送ってくるんや。まだ1歳半(現在9歳)やけど、新聞とかテレビでオレを見ると、“じじ”と言っとるらしい」

 “昭和の良き父親”でもあった監督。もう、そんな話も聞けない。「シーズンの勝ち星もゴルフのスコアも体重も、何でもかんでもオレは背番号と同じ77が目標なんや」。77歳まで、まだ7年もあったのに…。合掌。(東山 貴実)

[ 2018年1月12日 10:00 ]

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