【星野の記憶3】大野豊氏 ひと味違った選手見る目と掌握術

[ 2018年1月10日 08:20 ]

星野の記憶3~語り継がれる熱き魂~元広島・大野豊氏

北京五輪で投手コーチとして星野監督(後列中央)を支えた大野氏(同左)
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 訃報を聞き、信じられなかった。昨年11月28日の殿堂入りパーティーでお会いしたばかり。「おめでとうございます」と声を掛けると「おう、来たか」と。それが最後となってしまった。

 あれは北京五輪の1年前、2007年1月。私用で大分にいた。携帯を見ると、(山本)浩二さんから着信歴がある。折り返したところ「分かっとるやろ。今、仙(星野さん)に代わるわ」。星野さんは「頼むぞ!」とひと言、私が返事をちゅうちょしていると「すぐに返事をもらえんかったら、おまえんとこ行って土下座してお願いする」と言われた。まさか星野さんに土下座をさせるわけにはいかない。「はい、分かりました」と答え、日本代表の投手コーチを引き受けることになった。

 一緒に日の丸を背負って戦えるという機会をいただき、本当にありがたかった。星野さんは田淵さん、浩二さんとの3人の中にポツンと入ることになった私に「申し訳ないな。遠慮なく何でも言ってくれ」と気を使ってくれた。厳しさの中にある優しさ。08年のキャンプ視察の時は、4人でカラオケに行って3人が歌って「次は大野」となった。「歌はダメなんです」と最後まで歌わなかったら「おまえみたいに頑固なのは初めてや」と笑って言われた。

 選手を見る目、掌握術がひと味違った。空気を読み、選手のスイッチを入れる。北京五輪でメダルを逃した後、「全ては俺の責任」と敗戦を一人で背負い込んだ。力になれなかったことが、今でも悔やまれる。

 私が41歳だった97年4月30日、中日戦で3安打完封。ナゴヤドームは相性がよく、数日後、当時監督の星野さんは「おまえはうち(中日)から給料もらっとるようなもんじゃないか!」。その顔は笑っていた。そして乱闘のときは、相手チームの私に「おまえはやめておけ」と。同じ投手として少しは認めてもらえていたのかもしれない。

 周りのこと、球界のことを最後まで考えておられた。まだ70歳。あまりに早すぎる。今は星野さんの存在の大きさを改めて感じています。 (スポニチ本紙評論家)

 ◆大野 豊(おおの・ゆたか)1955年(昭30)8月30日、島根県出雲市生まれの62歳。出雲商から軟式の出雲市信用組合を経て、77年2月にテストを受けて広島に入団。先発と救援で活躍し、実働22年で通算148勝138セーブ。引退後は広島コーチのほか、04年アテネ、08年北京の両五輪で日本代表のコーチを務めた。13年野球殿堂入り。左投げ左打ち。

 ≪中日戦の勝率.659≫41歳8カ月での完封勝利は当時、50年若林(毎日)の42歳8カ月に次ぐ史上2番目の高齢記録だった。広島では今もチーム最年長記録。大野はこの年、中日戦に5試合登板し4勝0敗、ナゴヤドームでも4戦3勝と星野中日の天敵になった。中日戦は通算29勝15敗、勝率・659と好相性だった。

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