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【浜田剛史 我が道18】右膝内側で「パキッ」と音が…試合まで1カ月、入院の選択肢はなかった

[ 2026年1月19日 07:00 ]

テーピングした右膝を気にしながら水中トレ
Photo By 提供写真

 1985年(昭60)7月7日、東洋太平洋ライト級王者ジョンジョン・パクイン(フィリピン)に挑戦することになりました。中量級は当時、世界ランカーとのマッチメーク自体が難しい。東洋王座を獲れば、世界ランクに入れますからね。

 焦りはなかったですね。「いつまでも、ないと思うな運と災難」です。運が来るまで待ち、来たときに力を発揮する。この試合も、昼間の生放送で前日計量だった。減量は厳しかったけど、運はあった。世界挑戦はライト級か、ジュニアウエルター(現スーパーライト)級と決まってましたから、できる試合をやるだけでした。

 ただ、試合1カ月前に右膝に異変が起こりました。原因は、左拳骨折のブランク中、左を使えないので、右の練習ばかりしていたからです。右のパンチは通常、右足首をひねって膝を入れる。それだと連打の回転に速さが出ないので、膝と腰だけで回転させる。その反復練習で、痛めたんですね。

 キャンプから痛みが出てました。ゴルフ場の走り込みは、先頭を譲ったことがないんですが、痛いから少しセーブした。そしたら、帝拳の同僚の穂積秀一(日本フライ級王者)が喜んで前に出ようとする。負けるわけにはいかんと、頑張ってしまったんですね。

 戻ってからのジムワークで、右膝の内側で「パキッ」と音がした。この時は屈伸運動をしたら痛みが消えたんです。練習を終え、1人暮らしを始めていた東久留米に帰ると、地面に足を着けないぐらい痛くなり、紫色に腫れ上がってきました。

 病院で血を抜くと、黄色と赤色でした。医師は「右膝半月板損傷」と診断しましたが、膝の精密検査をしないと詳しいことは分からないという。入院は1週間。試合まで1カ月で、生放送は決まっているし、チケットも完売している。入院の選択肢はなかった。

 本田明彦会長は、プレッシャーがあったと思いますよ。動けないオレは家にこもった。マスコミには「キャンプに行った」と。右膝がいつ治るのか、治らなければ左足だけで試合をするのか。

 「前の日までに、試合をするかどうかを決めよう」

 試合ができなければ、相当な批判と損害が出る。それを全部、かぶる覚悟をしたんでしょう。2週間後、痛みが和らいでジムに行きました。また痛めてはいけないので、スパーリングはできない。体重は、休んでいる間に残り2キロ弱まで落としておきました。

 練習をしながら体重を落とすのは、大変なんです。食べないで動かないといけない。でも、動かなければ腹も減らない。野菜だけ食べて、ずっと横になっていれば、体重は落ちますからね。

 「いやあ、間に合ったな」と本田会長と話したのは、7月5日、試合2日前でした。

 ◇浜田 剛史(はまだ・つよし)1960年(昭35)11月29日生まれ、沖縄県出身の65歳。沖縄水産高で高校総体王者。帝拳ジムからプロデビューし、84年12月に日本、85年7月に東洋太平洋のライト級王座を獲得。86年7月にレネ・アルレドンド(メキシコ)を衝撃的な初回KOで破り、WBC世界スーパーライト級王座を獲得した。戦績は24戦21勝19KO2敗1無効試合。現在は帝拳ジム代表。

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