【平野謙 我が道26】救われた住友金属鹿島の3年間 同じ野球でもプロとは違う環境

[ 2025年10月27日 07:00 ]

住友金属鹿島2年目の04年、総合コーチになってバントを指導する

 1999年(平11)に就任したロッテの2軍監督。やることは基本的にコーチと一緒だが、肩書があるからいろんなことに口出しできる。

 2000年に入団してきた清水直行がイースタンでボコボコに打たれた時だ。試合後、投手コーチの植村義信さんに付き合ってもらって室内練習場でフォームをチェックした。

 本人はセットポジションで真っすぐ立っているつもりらしいが、体が反って、ボールの出どころが打者に見やすくなっている。そこを修正したら、次の試合で結果が出て1軍昇格。02年から5年連続2桁勝利を挙げるエースになってくれて、ありがたかった。

 2軍監督を3年やらせてもらって、02年は1軍ヘッドコーチを命じられた。これはもう最悪だった。監督は山本功児さん。コーチと選手の関係だった時はいろいろ教えてもらったが、今度は違った。

 チームをいい方向に向けるために進言しようとしても「俺が監督の間は俺の言うことを聞いてくれ」。自分のやり方に固執して受け付けてくれない。話し合いができず、つらかった。

 67勝72敗1分けで4位に終わったシーズン終了後、球団から契約終了を告げられた。最後は人間不信に陥ったが、現役から9年間お世話になったロッテには感謝しかない。

 鬱(うつ)のような症状が出ていたところを救ってくれたのは住友金属鹿島(現日本製鉄鹿島)だった。「社会人を教えてくれないか」。話をくれたのは広野功さん。中日、西武、さらにロッテでも一緒だった縁のある人だ。

 社会人野球は初めて。大学卒業時、三菱重工名古屋に内定していたのに、中日からドラフト外で誘われて辞退させてもらった。そんなこともあって凄く興味があった。

 週何日とは決めず、大会前は泊まり込み。評論家として名古屋の東海テレビ、東海ラジオ、中日スポーツで仕事させてもらいながら、空いた日は茨城県の鹿嶋に通った。最初はユニホームは着ないで打撃、守備、走塁の全般を見た。

 プロ野球の練習の仕方は新鮮だったようで、食いつきが良かった。ちょうど社会人野球が金属から木のバットに替わった年。この年2割7分程度だったチーム打率が、総合コーチになってベンチ入りした2年目の04年は3割1分まで上がった。

 取手二高時代、84年夏の甲子園決勝でPL学園の桑田真澄から決勝3ランを放った中島彰一監督が良くしてくれて、3年間お世話になった。一癖二癖ある選手もいたが、監督をはじめいい人ばかりで救われた。

 03、05年は都市対抗、04年は日本選手権に出場。同じ野球でもプロとは環境が違う。企業チーム。全国大会に出ると出ないでは物凄い差がある。ある意味、プロ野球より大変だなと思った。

 ◇平野 謙(ひらの・けん)1955年(昭30)6月20日生まれ、名古屋市出身の70歳。名古屋商大から77年ドラフト外で中日入団。88年に西武、94年にロッテ移籍。右投げ両打ち。俊足強肩の外野手として活躍する。ゴールデングラブ賞9回。盗塁王1回。歴代2位の通算451犠打。引退後はロッテ、日本ハム、中日、社会人、独立リーグなどで指導を続ける。現在はクラブチーム、山岸ロジスターズ監督。

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