浅田真央“伝説の4分”(3)「こういう子が活躍するのかな」

[ 2014年12月18日 10:30 ]

真央万感フリー。佐藤コーチは初めて会ったときから活躍を予見していた

 なぜ、そう思ったのか今でも分からない。佐藤信夫コーチ(72)は、浅田真央(24=中京大)と初めて会った時のことを鮮明に覚えている。浅田が小学生時代、小塚崇彦(25=トヨタ自動車)を指導していた同コーチは、クロアチア遠征を共にした。帰国時、乗り継ぎ便を待つ間、母・匡子(きょうこ)さんとじゃれ合う女の子を見て、ふと思った。

 「ああ、こういう子が世界で活躍するのかな」

 当時、佐藤コーチにとって浅田は「浅田舞の妹」という認識でしかなかった。演技を見たこともなかった。あふれる才能に気付いていたわけではないのに、なぜか将来の活躍が予見できたという。浅田が各年代で活躍するたびに思い出した。あの日、空港で見た仲の良い母娘の姿を。

 浅田と佐藤コーチがスケートの話を初めてしたのは、10年バンクーバー五輪の翌3月に行われたトリノ世界選手権。日本チームでの朝食中、同コーチは「僕の年齢になると、スピンしたら目の中に星が飛ぶ」などと話していた。浅田は「私も星が出たことある!」と雑談に参戦。「なんで星が出るんですかね?」と聞かれた同コーチは、「それは練習不足だからだよ」と教えた。

 10年夏、匡子さんから佐藤コーチの元に電話がかかってきた。コーチ就任の打診だった。浅田はバンクーバー五輪で銀メダルを獲得し、世界選手権も制覇。既に輝く実績を残している選手を指導することに、最初は難色を示していた。だが、病魔と闘いながら、何度も頭を下げる匡子さんの熱意に押されて受諾。秋から本格始動した。

 匡子さんは11年12月9日、肝硬変で48歳の若さで死去。匡子さんと家族は約束していた。「これからも自分の夢に向かって、やるべきことをやる」。ソチ五輪のフリー前、浅田は誓っていた。「支えてくれたたくさんの方に、今回はメダルという形で結果は残すことができないけど、残すのは自分の演技」。一番近くで支えてくれた母へ、みんなへ、伝えたいメッセージがあった。

 ラフマニノフの荘厳な調べが会場を包む。開いた両手を体の前でクロスさせ、浅田のフリーが始まった。冒頭に3回転半を完璧に決めると、全ジャンプを着氷する。スパイラルから、万感のフィニッシュへ。最愛の母がいる天を見上げた。“伝説の4分”が終わり、涙があふれ出た。「心配してくれた人もたくさんいる。自分の最高の演技で恩返しができた」――。=終わり=

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2014年12月18日のニュース