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“ジーコを日本に連れてきた男”ルイスアントニオ高崎氏を悼む

[ 2016年8月6日 10:25 ]

 元日本代表のジーコ監督が第13回日本サッカー殿堂に特別選考で掲額されることになった。9月10日に掲額式典が行われる。

 ジーコの功績はよく知られている。ブラジル代表選手として82年W杯スペイン大会などで活躍、81年12月のトヨタカップ(クラブW杯の前身)に南米代表のフラメンゴの一員として来日し、国立競技場で日本のファンに妙技を披露した。現役引退後はスポーツ庁長官に就任したが、91年に現役復帰し、Jリーグ参加が決まった住友金属(現鹿島アントラーズ)に入団した。

 日本リーグ2部から参加の住友金属は、ジーコスピリットでまたたくまに強化されていった。Jリーグ1年目の第1ステージでいきなり優勝し、日本中を驚かせた。ジーコはサッカーに対しては真摯で、酒もたばこもやらず、生活の中心にサッカーを置いた。

 そのジーコを日本に連れてきたのが日系3世のルイスアントニオ高崎氏だった。ジーコの殿堂入りが発表される直前の7月19日に高崎氏は急死した。67歳だった。

 10年ぐらい前に「日本とブラジルの往復が50回目だ」と言っていた。バルセロナ五輪やFIFA本部のあるチューリヒでばったり会ったが、いつもジーコと一緒だった。W杯フランス大会ではブラジル代表のテクニカル・コーディネーターになったジーコの近くにいた。ジーコが日本代表監督に就任した後は一緒に仕事をすることがなくなり、最近はサッカー関係の仕事もしていなかったようだ。だが、「ブラジルのテレビ局と提携しないか」と、会社に来たこともあった。「ブラジルのサッカー番組を日本のケーブルテレビ局でやるんだ。話を聞きに来てくれ」と、日暮里の事務所に呼ばれたこともあった。「ブラジルのフットサルチームのプロモーションをやっている」と、フットサル場で会ったこともある。不思議な人だった。高崎氏がいたからジーコが住金入りしたことはまちがいない。鹿島で活躍しなければ日本代表監督になることもなかった。Jリーグの歴史も違ったものになっていたかもしれない。そして、Jリーグ初期に関わった人が、また1人いなくなった。

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2016年8月6日のニュース