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サッカーが人を結びつけた…宮古島で実現した奥大介さんの“夢”

[ 2016年4月6日 10:00 ]

14年10月に交通事故で亡くなった奥大介さん。その遺志は今も受け継がれている

 春爛漫。桜の木の下で少年たちがボールを蹴っている。その光景を見て、もうこの世にいない人が開いた、あるサッカー教室を思い出した。穏やかな南国の風が吹く、よく晴れた日だった。グラウンドには、主催者が会いたくて、ついぞ会えなかった子供たちが集まった。総勢約300人、島でサッカーをしているほぼ全ての少年少女たちが、ボールを蹴って笑っていた。

 昨年12月19日に行われた「奥大介 Present ジュビロ磐田 名波浩監督 宮古島サッカースクール」。タイトルの通り、開催者は元日本代表MFの奥大介さんだった。14年10月17日、サトウキビ畑に囲まれた島の道路で、交通事故のため、享年38歳の若さで天国へと旅立っている。遺志は、奥さんを、奥さんの思いを忘れない人の尽力で、実現へと動き出した。

 現役時代は磐田、横浜などでJリーグ優勝に貢献。日本代表でも26試合2得点の実績を残した。サッカーから離れてもサッカーを愛し、熱く語る人だったという。宮古島へは、神戸弘陵高時代の後輩で、高級リゾートホテルの料理長を務める政次由宇さんのもとで料理人としての人生を歩み出すため、14年の夏から移り住んでいた。

 周囲に話していたという「宮古島に自分の店を持ちたい」、そして「サッカーを島の子供たちに教えたい」という2つの夢。同居人でもあった政次さん、そして兵庫県尼崎市の同郷の知人で15年来の親交があった松田泰成さんが発起人となった。磐田時代の兄貴分だった磐田の名波浩監督、鈴木秀人コーチ、そして磐田と横浜でチームメートだった清水範久も無償でコーチを務めた。

 パスにドリブルにヘディング。過去にJリーガーが2人しか誕生していない南国の島で、確かな技術やサッカーを楽しむ一流の心が、奥さんを通じて小学生に伝えられていく。寒風が吹き荒れた前日までと天気は一変。「大ちゃん、笑ってんのかなあ」。発起人の松田さんは、快晴の空を見上げて目を細めていた。「サッカーやりたいですよ、名波さん」。名波監督は、そんな言葉が聞こえた気がしたという。

 私が磐田担当を務めたのは、14~15年の2年間。生前の奥大介さんにお会いしたことはない。けれど、清水氏曰く「サッカー少年がそのまま大人になったような」“永遠のサッカー小僧”の残した思いに突き動かされる人たちに出会い、奥さんを知った。サッカーが人を結びつける力を知った。小さな島の小さな教室が、この先もずっと続いていくことを願っている。(波多野 詩菜)

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