赤ヘル戦士第2の人生(1) 元広島・小松剛さんの会社員&指導者“二刀流” 「目的意識を浸透させたい」

[ 2022年5月30日 12:30 ]

昨年まで広島の2軍マネジャーを務め、今年から人材サービス「パーソルキャリア」で働く小松剛さん(提供写真)
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 かつての赤ヘル戦士が、力強く第2の人生を踏み出した。08年ドラフト3位で広島に入団。5年間の現役生活を経て、同球団で広報、マネージャーを務めた小松剛さん(35)が今年1月、人材サービス「パーソルキャリア」に就職した。ビジネスマンとして多忙な日々を過ごす中、5月から高校のコーチとして初指導も経験。スポーツを通じての社会貢献を目指す小松さんの奮闘に迫る。

 久々に立つグラウンドは、やはり特別な場所だった。5月14日、小松さんは高知県の梼原(ゆすはら)高校に、指導に赴いた。約3時間、高校球児とともに汗を流し、野球というスポーツの素晴らしさ、そして高校球児の無限の可能性を再確認した。「想像通り、面白かったです。技術面もそうなんですが、今、何をやっているのか、何のためにやるのか、何をするべきか。そういった目的意識を浸透させることができれば。もちろん、選手によって反応はそれぞれですが、どうしたら伝わるかを考えるのも面白かったです」。指導者デビューとともに、自らの原点に帰ることができた3時間でもあった。

 山も谷もあった野球人生。どちらかというと谷の方が深かった。高知・室戸高では最終学年で主将も務めたが、3年夏の高知大会は2回戦敗退。初戦で完封勝利を収めていた小松さんは登板機会がなく、打たれたサヨナラ本塁打を一塁の守備位置から見送ることしかできなかった。法大進学後も右ひじ手術の影響で入学から1年間は公式戦登板がかなわなかった。それでも地道に体力作りに励み、先輩のブルペン投球を研究することで球速は高校時代より7キロアップの148キロに到達。2年春には胴上げ投手にもなり、東京六大学通算11勝をマークしてプロの扉をたたいた。

 プロ生活は「山」からスタートした。1年目の5月24日西武戦(マツダ)で初勝利をマーク。当時は“彼女”だった妻の誕生日だった。「よし行ける、やってやろうという気持ちだけでしたね」と振り返る。1年目は5勝。だが、プロの世界で生きていく自信を得た矢先、思いもかけないアクシデントに襲われることになる。

 「どうやったら這い上がれるんだと。そればかり考えていました。あきらめることはなかったですが、良くなったり再発したりの繰り返しで、どうしたらいいんだと」

 2年目の後半、突如イップスを発症。3、4年目は1軍に昇格することすらできず、4年目のオフ、球団からは育成契約を打診された。再びの支配下登録を目指し、背水の陣で臨んだ5年目。自主トレからメンタルトレーナーのもとで勉強し、徐々に症状は良化した。派遣先の四国アイランドリーグ・徳島で9勝をマーク。しかし、10月に待っていたのは球団からの戦力外通告だった。

 「ありがたいことにスタッフの話をいただいて、必要とされていることを感じました。もう選手ではないですが、野球を職業にし続けられる幸せもありました」

 スタッフとして球団の力になると決めた。ただ、当初は複雑な思いもあった。2014年3月30日の中日戦(ナゴヤドーム)。プロ初勝利を挙げたドラフト2位ルーキー・九里をヒーローインタビューへと誘導し、試合後の取材を仕切る。それが小松さんの広報としてのシーズン初仕事だった。

 「若い選手が初登板で勝って、もちろん嬉しいんですよ。目の前でヒーローインタビューを受けて、まぶしいし」と笑う。ただ「でも…」と続け「もう1年やりたかった。もしかしたら、もう1回、あそこに立てていたんじゃないかって。もっとできたんじゃないかと、自分自身に腹が立って…」とかみしめる。名古屋市内の宿舎に帰ると、ジャージに着替え、おもむろに夜の街をダッシュ。「ウワーッとか言いながら。明らかに不審者ですよ」。その夜のことは、名古屋城に向かっていたことしか覚えていない。

 その後、16、17年は1軍広報として、18年は2軍マネージャーとしてチームの3連覇に貢献した。「やりがいはすごくありましたね。広報ってチームに欠かせない立場だと思うんですよ。本当に忙しかったです。強いときでしたし、選手をどう、表に出していくか。顔と名前が売れるのは、プロとしての価値が上がることですから」。しかし、充実感とは違う感情が芽生えるようになったのは2軍に配置転換となった18年以降だった。

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