「地獄」の巨人・伊東キャンプ知る“北陸の田淵”「巨人は試合前、阪神は試合後にヒゲをそる」

[ 2021年3月3日 09:00 ]

猛虎の血―タテジマ戦士のその後―(7)笠間雄二さん

【猛虎の血】83年6月25日、中日戦の9回、サヨナラアーチを放ちナインにもみくちゃにされる笠間(中央)

 阪神と巨人。どこに差があるのか。何が違うのか。それを語れるのは、両軍のユニホームを着た経験者だ。阪神のコーチ、フロントも経験した笠間雄二(67)は巨人―阪急―阪神とプロ人生を歩んできた。スポーツデポサンシャインワーフ神戸店(神戸市東灘区青木)のベースボールアドバイザーとして、野球振興の最前線で働く。「北陸の田淵」と呼ばれた男が、TG野球人生を回想した。

 現役時代の阪神と巨人の違いを、笠間はこう表現した。「巨人は紳士たれ、という伝統があるから、試合前にヒゲをそって、グラウンドに出る。でも阪神は試合後にヒゲをそって、出かけていく。当時はそんな雰囲気でしたね」。しかし優等生だから勝つ、とは限らない。それが野球の面白いところだ。巨人も阪神も以前とは雰囲気が違う。「同じ捕手出身として矢野監督に期待をしている」と球春を待ちわびていた。

 巨人時代の強い記憶として残っているのが「地獄のキャンプ」として伝説になっている79年秋の巨人・伊東キャンプだ。この年、5位に低迷したことを受け、チームの底上げを目指した監督・長嶋茂雄が陣頭指揮をとり、若手を鍛え上げた。

 参加メンバーは18人。次代の主力として選抜された選手たちだった。江川卓、西本聖、山倉和博、篠塚利夫、中畑清……。この中に後にタテジマを着ることになる3年目の笠間もいた。期間は約1カ月。少数精鋭でチーム練習はなく、個人強化メニューだけと徹底していた。ランニング、ノック、そして打撃に重点が置かれ、血だらけの手でバットを握った記憶が残っている。

 「フタを開けてみて、びっくりという感じで、気持ちの準備もできていなかったし、今でも一番きつかったと言えるのは、あのキャンプ。でも練習の合間に長嶋さんと風呂に入ったり、将棋を指したのも、いい思い出」

 三度目の正直での巨人入りだった。社会人・電電北陸で「北陸の田淵」と注目された強打の捕手は73年の太平洋クラブ、74年の阪急の指名を拒否。76年ドラフト6位で巨人入りを果たした。だが野球人生は揺れ動く。伊東キャンプ後の80年1月に阪急にトレード。同年オフに今度は阪神にトレードされた。キャリアハイとなったのは83年。6月25日の中日戦(甲子園)でサヨナラ本塁打を放つなどの活躍が認められオールスターにも出場した。

 「サヨナラ本塁打は小林繁とのバッテリーだったけど、ベンチ総出の手荒い祝福で、頭が痛かった記憶しかない。速さでは新浦寿夫。ボールの伸びで江川。コントロールは小林。そして福間納の変化球が強く印象に残っている」

 右ヒジ痛が悪化し、84年に引退。その後はバッテリコーチ、スコアラー、広報担当などで阪神を支えた。「コーチ時代の思い出はマンツーマンで山田勝彦(現2軍コーチ)が育ってくれたこと」。03年からはスポーツデポの店頭に立ち、野球用具購入のアドバイスを送っている。「景気の影響かもしれないけど、グラブを大事に使う子が増えてきた。いいことだと思います。そして女の子も増えてきました」。スタートした「タイガースWomen」にも期待をしていた。=敬称略=(鈴木 光)

 ◆笠間 雄二(かさま・ゆうじ) 1953年(昭28)3月22日生まれ、石川県出身の67歳。金沢―電電北陸から76年ドラフト6位で巨人入団。80年1月にトレードで阪急、同年11月に再びトレードで阪神移籍。84年に現役引退。プロ通算397試合出場、打率・236、25本塁打、85打点。巨人時代は背番号31、阪神では13と27。1メートル83、87キロ(現役時代)。右投げ右打ち。

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