【内田雅也が行く 猛虎の地】桜のように散った「イッコウ」 初代「ミスター」小山、村山以前の剛腕

[ 2020年12月10日 11:00 ]

(10)サイパン

サイパンでの西村一孔さんと長男・篤彦さん父子(1989年5月2日撮影=西村篤彦さん提供)
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 西村一孔が終生自慢していた盾がある。長男・篤彦(58)が暮らす芦屋市の自宅応接間に今も飾られている。

 盾は「第一回ミスター・タイガース」の金色の文字と虎が鈍く光っていた。贈呈はスポーツニッポン新聞社。本紙が後援した1955(昭和30)年7月12、13日の「ゴールデンナイター」阪神―巨人戦(ともに大阪球場)で最高殊勲選手に選ばれ、編集長・桐山晴雄が記念盾を贈った。西村は2試合とも救援で登板し9イニングを自責点0に封じていた。この時既に10勝をあげ、大崎三男、小山正明、渡辺省三を差し置いてエース格だった。

 もちろん「ミスター・タイガース」は藤村富美男の代名詞だ。藤村はこの年5月21日から休養した岸一郎に代わり監督代行(選手兼任)に就いていた。マスコミやファンは新たな「ミスター」誕生を望んでいた。

 「ミスター・タイガースは何人も出てくるが、初代はオレだからな」

 父はそう言って来客に自慢していた。確かに「ミスター」と呼ぶにふさわしい投手だった。

 都留高時代は無名に近かった。社会人・全藤倉に進み、中京商(現中京大中京)夏の甲子園大会3連覇(31―33年)時の投手で、コーチだった吉田正男の指導を受け、成長した。54年夏の都市対抗で3試合連続完封するなど準優勝。毎日や大映と争奪戦の末、阪神入りした。背番号「20」に期待が見える。

 55年のシーズン、弱冠19歳の新人は開幕投手に抜てきされた。後年「ブルペンでも自分の球が一番威力があると思っていました。(開幕投手は)当たり前のことと思っていましたよ」と語っている。南萬満が取材し、藤村の評伝『真虎伝』(新評論)に記している。4月5日の大洋戦(浜松)、6回2失点で見事、勝利投手となった。

 入団時に「5尺8寸」と発表されたためか身長1メートル76と伝わっているが、実際は本人も長男も「1メートル80に5ミリ足りない」と語っている。当時では長身の右腕である。

 顔を左下に向けるフォームで「かつぎ投げ」と呼ばれた。速球は150キロは出ていたと伝わる。吉田正男仕込みのドロップ(縦割れカーブ)が切れた。他に西村孜がおり新聞は「西村一」と表記。名前は「かずのり」だが「イッコウ」と呼ばれ、親しまれた。

 オールスターにファン投票で選出され、地元(大阪、甲子園)とあって2試合とも先発した。

 チームは3位だったが先発、救援にフル回転した。実に60試合、295回1/3を投げ、22勝17敗、防御率2・01。奪三振302は当時歴代2位(1位は同年、金田正一の350)だった。文句なしの成績で阪神選手で史上初の新人王に輝いた。

 同年オフに来日したヤンキースとの日米野球にも出場した。名将ケーシー・ステンゲルが「西村の速球が印象深かった。まだ20歳。将来が楽しみだ」と語っていた。同じ全日本の一員だった吉田義男がよく覚えていた。

 1年目の登板過多が響いたのだろう。2年目56年は右肩痛で7月まで投げられなかった。盲腸を患いながら薬で抑えて登板していたため、腹膜炎を併発しオフに手術、2カ月も入院した。もう速球は戻らなかった。

 60年限りで現役引退。まだ25歳だった。6年間で通算31勝20敗。太く短く、桜のごとく華やかに咲き、散っていった。

 2軍コーチの後、レストラン、パチンコ店などを運営する妻の実家の事業を手伝うようになった。

 西村を「イッコウちゃん」と呼んだ藤村は「あれほどの投手はなかなかいない」と引退を悲しんだ。「何とか復活できないか」と当時、西宮市浦風町にあった自宅に自転車で何度もやって来た。庭で投球練習させ、現役復帰を勧めたそうだ。

 先の藤村評伝で南も残念がった。<阪神の投手というと、すぐ小山、村山、江夏の名が出てくるが、その直前に西村一孔というすごい投手がいたことを、今のファンはほとんど知らない>。

 62年2月生まれの篤彦は父親の現役時代を知らない。厳しく育てられ、少年時代から怖い存在、あまり話をしたことがなかった。梶岡忠義、鎌田実、村山実……ら家に来た阪神OBから現役時代を漏れ聞く程度だった。

 父が60歳前になると旅行に誘われるようになった。行き先は南の島サイパン。「古里の山梨にはない海への思いでしょうか。頻繁に、2カ月に1度ほどのペースで数年通いました。山梨と同じ、美しい星空が好きだったのかもしれません」。父子2人でゴルフやシュノーケリングに興じ、夜はよく話した。

 「練習はうそをつかない。結果が出ないのは練習が足らんということや」と、人知れず努力家だったことを知った。

 酷使で悲運と呼ばれたが「そんなことはない」と悔いも恨みもなかった。「投げろと言われれば投げる。プロなら当たり前だ。それで壊れるならそれだけの投手ということ。早く壊れれば次の生き方を見つけられる」

 西村は99年、63歳の若さで逝った。太く短く、全力で駆け抜けた人生だった。 =敬称略= (編集委員)

 ◆西村 一孔(にしむら・かずのり) 1935(昭和10)年10月11日生まれ。山梨県北都留郡富浜村(現・大月市富浜町)出身。都留高2年の52年夏、捕手兼控え投手で甲子園出場。社会人・全藤倉に進み、54年夏、都市対抗で3試合連続完封し準優勝。同年12月阪神と契約した。55年、新人で開幕投手を務めるなど60試合に投げ22勝。球団初の新人王に輝く。オールスター、日米野球にも出場。2年目から右肩痛に悩み60年引退。2軍コーチの後、事業家に転身した。67年阪神入団の西村公一は実弟。99年3月1日、胆管がんのため63歳で死去。

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