【内田雅也が行く 猛虎の地】開幕46日目の監督休養発表 「お家騒動」の導火線

[ 2020年12月8日 11:00 ]

(8)名古屋・香取旅館

阪神・岸一郎監督と藤村富美男助監督(1955年)=阪神球団発行『タイガース30年史』より=

 名古屋駅に最も近かった香取旅館は阪神が定宿にしていた。1955(昭和30)年5月21日、大広間に全選手が集められた。19日に後楽園ナイターで国鉄戦を終え、20日に移動、宿泊していた。

 集合は午後4時。午後7時開始のナイター中日戦(中日球場=現ナゴヤ球場)に向け、出発する前だった。球団代表・田中義一は「今日から当分の間、実戦指揮は藤村兄(藤村富美男)がとることになった。よろしく」と告げた。監督・岸一郎について「痔(じ)の治療のため休養する。復帰時期は分からない」と言った。「本人から申し出があった」としている。

 そのまま、岸は帰阪した。その夜、本紙阪神担当だった荒井忠は西宮市甲子園三番町の岸の家を訪ねている。7年後、阪神が2リーグ制初優勝を果たした62年10月に連載した『猛虎の旗の下に 私が見てきたタイガース』に書いている。<帰阪した岸さんにすぐ会ったら、じだんだを踏んで口惜しがった。「何が病気休養だ。僕は病気じゃない。球団から名目を押しつけられた。僕は失敗したとは思わない」>

 この時点で16勝17敗。ただ、巨人戦1勝9敗という惨状と選手からの不満の声に、本社内で休養論が高まり、球団が体裁を整えたのだった。

 前年オフ、辞任した松木謙治郎後任で本命は藤村とみられるなか、オーナー・野田誠三(本社社長)が押しつけた。

 岸は松木と同郷、福井県敦賀の出身。早大で左腕投手。満州に渡り、満鉄で現役を終え、神戸高商監督を務めた。就任時59歳、野球の現場を離れて30年がたっていた。

 若手登用を掲げ「藤村でも当たらなければ休ませる」という方針が反発を生んだ。藤村は岸を「おっさん」「老いぼれ」「ど素人」と呼び、ベテランが同調していた。

 岸は家族を敦賀に残し高校生の長女と2人暮らしだった。本紙・荒井は「寂しいから時間のある限り、いてくれ」と夕食をともにするようになっていた。<4月半ばには孤独になっていた><人の和の難しさを痛感させられた>と早期交代の危機を感じ取っていた。

 監督交代はやむなしとしたうえで荒井は<選手の言い分を通した格好で決着をつけた措置は甘い>と指摘している。<選手に勝利感を与えた措置が“もめる阪神”の導火線になっていた>。翌年の藤村排斥運動など度重なる「お家騒動」の体質を生んでいた。本社介入のあしき前例となった。

 復帰を望んだ岸は2度と戻らなかった。監督最後の地となった香取旅館は60年着工の大名古屋ビルヂングに同居して営業を続け、81年に閉館している。 =敬称略= (編集委員)

続きを表示

この記事のフォト

2020年12月8日のニュース