平成1号を放った原辰徳の元年シーズン

[ 2019年4月20日 09:00 ]

1989年4月9日付のスポニチ東京版1面
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】昭和天皇の崩御を受けて1989年1月8日に幕を開けた平成。新元号になってプロ野球最初のホームランを放ったのは原辰徳だった。

 開幕の4月8日。開場2年目を迎えた東京ドームでは午後1時から巨人―ヤクルト、同7時から日本ハム―ダイエーの変則ダブルヘッダーが行われた。今や札幌の日本ハムも東京ドームを本拠地としていた時代である。

 先陣を切った巨人の初回。2死、中畑清を三塁に置いて4番の原に打席が回ってきた。カウント2―2からの6球目。尾花高夫の投球を捉えた打球は左翼席の人波を割った。

 通算250号となる先制2ラン。よほどうれしかったんだろうな。当時巨人担当だった私はダイヤモンドを一周してナインの出迎えを受けるまでの動きをこう書いている。

 「跳び上がる。こぶしを何度も何度も突き上げる。通算250号を祝う花束にも、今年からホームランに贈られる童夢くん人形にも目をくれないで、ナインとの儀式に走る。原がこれほど荒々しく感情を表現したことが、かつてあっただろうか」

 格別の思い。「平成1号」に興奮したわけじゃない。2度目の登板となった藤田元司監督から「もうサードに戻すことはない」と左翼コンバート指令を受け、「これからは守備ではテレビにあまり映らないから、打つ方で思い切り目立とう」と心に決めたシーズン。最初の打席で最高の結果を出したのである。

 続く3回の打席でも左翼席へ2打席連続アーチを架けたスラッガー。7月4日の阪神戦(東京ドーム)では初回、中西清起から左中間へ先制3ランを放ち、入団以来9年連続となる20本塁打を記録した。当時のプロ野球新記録だ。

 チームも首位を快走。このまま突っ走れば最高のシーズンになるところだったが、20号を打った直後に左ふくらはぎを肉離れ。1カ月近く戦列を離れた。

 20試合ぶりにスタメン復帰した8月7日の広島戦(同)では2―2で迎えた延長10回、1死三塁から篠塚利夫(のちに和典)、クロマティを敬遠されての満塁で津田恒実の速球を叩いた。屈辱を晴らす左越えのサヨナラ打。帽子を深くかぶったお立ち台で「うれしいす…。胸がいっぱいです…」と声を詰まらせた。

 だが、その後は背筋痛に見舞われるなど4年間続けていた30本塁打には届かず、25本止まり。打率はプロ9年目で最低の・261に終わった。

 近鉄との日本シリーズではさらなる苦境が待っていた。4番で迎えた第1戦(藤井寺)は4打数無安打。5番に下がった第2戦(同)は4回無死一、二塁で送りバントを失敗した挙げ句三邪飛に終わるなど、またも4打席ヒットがなかった。

 打順を7番まで下げられた第3戦(東京ドーム)も無安打でチームは3連敗。そのままスイープされれば最大の敗因となっていたところだ。そうならなかったところは、さすがに持っている。またも7番で無安打に終わった第4戦は香田勲が3安打完封の快投で一矢報いた。

 そして迎えた第5戦、2―1で迎えた7回2死一、三塁。目の前でクロマティが歩かされた。一塁が空いていない場面での満塁策である。屈辱的な仕業には特別なアドレナリンが出るらしい。吉井理人がカウント2―2から投じた6球目を捉えると、打球は左翼席最前列に飛び込んだ。このシリーズ19打席目にして初ヒットが、またまた涙のグランドスラムである。

 「ワンワン泣きたい心境だけど、まだ試合が残っているから泣けない」

 再び敵地に乗り込んだ第6戦はまた無安打ながら、チームは3―1で勝って逆王手。第7戦は4―2で迎えた6回に左翼席へ2ランを放ち、このシーズン限りで引退する代打・中畑の現役最後のホームランを誘った。

 最後は8―5で勝って、3連敗4連勝の日本一。新元号1号でスタートした平成元年は紆余曲折の末に、うれし涙のゴールを迎えたのである。

 今季3たび巨人の指揮を執ることになった原は平成の最後をどう締めくくり、令和元年をどんなシーズンにするのだろうか。

 もうひとつ令和1号は誰のバットから飛び出すか。天皇の即位の日、5月1日。セ・リーグ3試合はすべて午後2時から、パ・リーグは1試合が同5時、2試合が同6時から行われる。ボールがよく飛ぶ今季。新元号1号はセの打者に決まりだな。=敬称略=(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年、岡山市生まれ。80年スポニチ入社。82年の巨人担当を皮切りに野球記者歴38年になる。

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