“一本足打法生みの親”荒川博氏急死 昼食後倒れ搬送…王さん最期みとり涙

[ 2016年12月5日 05:30 ]

荒川コーチ(右)と一本足打法完成へ深夜の素振りを繰り返す王
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 「世界の王」を育てた元巨人の打撃コーチ、荒川博(あらかわ・ひろし)氏が4日午後、心不全のために東京都内の病院で死去した。86歳だった。葬儀・告別式の日取りは未定。早実から早大を経て、毎日(現ロッテ)に入団。巨人のコーチ時代に伸び悩んでいた王貞治氏(76=現ソフトバンク球団会長)に「一本足打法」を指導し、日本刀を使い、素振り部屋の畳が擦り切れるほどの猛練習は「荒川道場」と呼ばれた。晩年まで指導に情熱を注いだ名伯楽がこの世を去った。

 「世界の王」を世に生み出した荒川氏が突然、天国へと旅立った。この日、昼にそばを食べた後に「胸が痛い」と言って倒れ、救急車で東京都港区の病院へ搬送された。すぐに王氏も病院へ駆けつけた。ほとんど意識はなかったが、王氏は「まだ頑張れる」とずっと声を掛け続けていた。最期をみとると、涙を流したという。

 王氏は、荒川氏も出席予定だった巨人のOB会総会に出た後、再び病院へ。「今の僕があるのは荒川さんの指導者としての並々ならぬ情熱があったから。一人ではなかなか行けない境地を教えてもらった。今は感謝の気持ちしかありません。私も幸せだったが、荒川さんも幸せだったと思う」と亡き恩師をしのんだ。

 都内の自宅で対応した弟の富男さん(77)は「けさも元気だったんです。毎週日曜は自宅に行って一緒に食事していたから“今夜はお寿司かな”なんて話していたくらい。王さんが最後に来てくれて、兄も凄く喜んだと思う。自慢の教え子でしたから」と話した。荒川氏は数年前から心臓を患い、入退院を繰り返していた。医師から人工透析も勧められたが、受けなかった。常々「俺は死ぬ時は心不全だ。ぽっくりと逝きたい」と話していたという。

 王氏との出会いは1954年秋。毎日の選手だった荒川氏が散歩中に東京・隅田公園の野球場で試合をしている当時中学2年生だった王少年を見かけた。左投げの投手だが打席では右打ちでパッとしない。ぎごちなさを感じた荒川氏が左で打つことを勧めると、鋭い二塁打を放った。高校生だと思っていた少年が中学生だったことに驚き、荒川氏は母校の早実へ進学を勧め、王氏はエースとして57年春に同校初の甲子園優勝を果たした。

 61年に現役を引退し、巨人の打撃コーチに就任。運命は2人を引き寄せた。荒川氏は「王は打つ時に手が動く欠点がありバランスも悪い。片足で立てば動けない」との理論から一本足打法が生まれた。荒川家、遠征先の宿舎の畳は血でにじみ、擦り切らして何枚も駄目にした。全てがプロ野球記録の868本塁打を積み上げる礎となった。

 王氏の前には、今年野球殿堂入りした榎本喜八氏を育て、後には黒江透修氏や末次利光氏らが「荒川道場」に通い、巨人のV9戦士となった。昨年8月には早実の後輩にあたる清宮について「生きていて良かった。清宮を見られた。長生きをしたくなった」と話していた。最近まで神宮外苑の軟式打撃練習場で子供たちを教えていた。荒川氏は最後まで指導者だった。

 ◆荒川 博(あらかわ・ひろし)1930年(昭5)8月6日、東京都生まれ。早実では3年時のセンバツにエースとして甲子園に出場した。早大で外野手に転向し、53年毎日(現ロッテ)に入団。同年のオールスター戦出場を果たした。通算9年間で803試合に出場し、打率・251、16本塁打、172打点。引退後の62年から巨人の打撃コーチを9年間務めた。73年にヤクルトの打撃コーチに就任。翌74年からヤクルトの監督を務め、3シーズン目の76年5月に辞任した。

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