高田初戦で散る…9回逆転被弾の吉田 津波で犠牲父から教わった野球まっとう

[ 2014年7月14日 05:30 ]

<高田・平舘>逆転負けで夏の挑戦が終わった高田ナイン

岩手大会1回戦 高田5―6平館

(7月13日 森山)
 1勝は遠かった。高田高校は13日、全国高校野球選手権岩手大会1回戦で平館(たいらだて)と対戦。5―6で敗れ、2年連続初戦突破はならなかった。打線は相手を上回る14安打を放ったが、1点リードで迎えた9回、エース右腕の吉田凛之介投手(3年)が逆転2ランを許した。あらためて知った1球の怖さ。甲子園出場の夢は、後輩たちに託された。

 ぼうぜんと白球を見送った。5―4の9回1死一塁。2ボール1ストライクから吉田が投じたツーシームは、右翼席に運ばれた。「半端な…高さに…行って…。高校で…初めての…ホームラン。本当に悔しい」。おえつを漏らしながら、エースは言葉を絞り出した。

 「2番・遊撃」でスタメン出場した吉田は、初回に右翼フェンス直撃の三塁打を放つなど、2安打をマーク。チームが8回に勝ち越すと、満を持してマウンドに上がった。先頭打者に右前打を許したが、続く9番打者の送りバントを素早く処理し、二塁封殺。2年連続初戦突破まで、あと2死だった。まさかの結末に「みんなに申し訳ないです」と責任を背負った。

 6月。伊藤貴樹監督(33)に呼ばれた。「夏はおまえで勝負を懸けるぞ」。野手として打線をけん引しながら、ストッパー役を託された。チームの大黒柱として、背中でナインを引っ張る。決して弱音は吐かない。そう決めた。大会直前まで伊藤新コーチ(42)から激しい個人ノックを浴び続けた。ユニホームは誰よりも先に真っ黒になった。

 野球を始めたのは保育園入園後だった。父・利行さん(享年43)の教えは丁寧で、すぐに野球が好きになった。米崎中時代にもコーチを買って出てくれた。大好きだった父は、3年前の東日本大震災による津波の犠牲になった。

 12日の開会式ではさまざまな思いが胸の中で交錯した。早朝に起きた地震の影響で津波注意報が県内に出され、開会式間際に到着した沿岸部の高校もあった。サイレンを聞き、高台に避難した住民も多くいた。

 そんな中、吉田は胸を張って行進し、母・和枝さん(43)に「自分たちの代になって、夏の雰囲気が違う」と最後の夏に懸ける思いを伝えた。高田高校野球部OBで兄の心之介さん(19)は「昔は反抗期。最近は連絡が来るようになりましたね」と、成長した弟の姿をスタンドから目に焼き付けた。「天国のおとうにはありがとうと言いたい。お母さんにも兄貴にも、おじいちゃん、おばあちゃんにも支えてもらった。だから、つらいことはなかった。本当に感謝したい」。家族の存在は大きな力だった。

 就任2年目の伊藤監督は「彼がずっとチームを引っ張ってくれた。最後は酷な結果になって、監督として申し訳なかった。でも、凛之介は思い切って投げてくれた」。目を真っ赤にしながら、エースを称えた。

 昨夏は2勝を挙げ、被災した地元住民に勇気を与えた。秋は優勝した花巻東と6回まで互角に戦いながら、5―7で敗れた。春は一関学院に7回コールド負けを喫した。強豪校に競り勝つため、ミーティング量は増えた。伊藤監督は選手との対話を繰り返し「夏は勝負できるチームになった」と言った。

 だが、あまりにも短い夏は終わった。指揮官はナインに向け、こう言った。「厳しい現実だけど、この敗戦をこれからの生活に生かしてほしい」。選手たちは1球の怖さ、野球の怖さを知った。残された1、2年生部員には、1勝を挙げる難しさが受け継がれる。この悔しい敗戦は、高田高校野球部の新たな出発点となる。

 ▽復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年 東日本大震災で甚大な被害を受けた同校硬式野球部の姿を通して、被災地の「現在」を伝える連載企画。2011年5月11日に第1回がスタート。12年3月まで月に1回、3日連続で掲載。その後も不定期で継続しており、今回が45回目となった。

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2014年7月14日のニュース