陸前高田市・高田高校野球部の1年 佐藤仁 18歳で得た生きる道

[ 2014年3月2日 05:30 ]

海洋システム科総代として卒業証書を受け取る佐藤仁

 高田高校の卒業式が1日、大船渡市内の同校で行われ、169人の3年生が高校生活に別れを告げた。2011年3月11日に起こった東日本大震災による津波で、陸前高田市内にあった旧校舎は壊滅。卒業生は大船渡市内の現在の仮校舎で3年間を過ごした。佐藤仁(じん)内野手は当初、強豪の専大北上に進学が決まっていたが、震災の影響で断念。一つの夢を捨て、また別の夢を追った高校生活を終えた。

 卒業生と在校生が輪になった。肩を組んで、ゆずの「栄光の架け橋」を歌った。気温5度。歌声は寒風のグラウンドに響く。涙はない。笑顔があった。はじけんばかりの笑顔があった。卒業式を終え、各クラブの交歓会の輪ができる。海洋システム科の総代として卒業証書を受け取った佐藤は「いろいろあったけど、今は周囲に感謝の気持ちです。大変なことと楽しかったこと。どちらもたくさんあった」と言った。

 2011年3月9日に彼ら卒業生は高田高校の入学試験に臨んでいた。採点が終わった2日後に大津波が襲った。だから彼らは1日しか青い屋根が印象的な旧校舎に足を踏み入れていない。合格発表は近くにある大船渡東で行われた。掲示板にあったのは「全員合格」の4文字だけだった。入学試験の採点結果など、どこにも残ってはいなかった。

 入学式は間借りしていたその大船渡東の体育館を借りて行った。岩手県内で最も遅い5月10日だった。制服がなく、ジャージーで晴れの式に臨む新入生がいた。彼らの制服は、形式的には全国からの支援で「貸与」されたものだった。その後、現在の仮校舎に移ったが、教室の窓から見えるグラウンドには自衛隊の車両がびっしりと止まっていた。あれから3年近くがたった。

 高校でも野球を続けたいと考えていた佐藤は、強豪の専大北上に進学することを決めていた。しかし、あの津波が運命を変えた。可愛がってくれた祖父母を亡くし、自宅も流された。昨年11月に新しい自宅が完成するまで仮設住宅で暮らした。迷った末に地元の高田高校進学を決め、野球部に入った。

 「(その決断を)後悔はしていません。その時は地元にいたかった。でも…。チャレンジしていたら、という気持ちは今でもあります。そういう気持ちは、ずっとどこかにはあったと思います」

 15歳での決断が正しかったのか、正しくなかったのか。18歳の今も分からない。しかし、高田高校で過ごした3年間は佐藤の誇りだ。「自分のやりたいことが、見つかった3年間でした。新しくやりたいことが見つかった」と言う。佐藤は国立宮古海上技術短大に進む。2年間きちんと専門知識を身に付けて、将来は航海士になるのが夢だ。海洋システム科に入学したのは、当初からの希望ではなかったが、生きる指針は高田高校で見つけたのだ。

 私立の強豪校でプレーすることはできなかったが、昨夏の岩手大会でチームは2勝を挙げることができた。

 愛する家族や友人を亡くしたが、素晴らしい仲間と一緒に過ごせた。小型船舶2級と潜水技術検定の資格も取った。

 「もし、別の学校に進んでいたら?」の質問に「(進学して)野球を続けていたでしょうね」と複雑な表情で佐藤は答えた。かつて誰にも見せない涙があったのだろう。

続きを表示

2014年3月2日のニュース