22年北京五輪の開幕が、徐々に迫ってきた。選考レースが進む中、GPシリーズ第2戦のスケートカナダ(10月29日開幕)にエントリーしているのが山本草太(21=中京大)。かつて引退の危機にもさらされながらも、トップ選手が集う舞台に戻ってきた。幾多の試練を乗り越えてきた21歳が、過去を振り返るととともに未来へと目を向けた。(取材・構成 西海 康平)

復活を期す21-22シーズン

 陽のあたる場所に帰ってきた。連覇を果たした中部選手権に続き、迎えたジャパン・オープン。今季から使用するフリー曲『これからも僕はいるよ』に乗って、山本は冒頭に4回転サルコー、4回転トーループを成功させた。その後のトリプルアクセル(3回転半)で転倒もあったが、最後まで見事に演じきり、スタンディングオベーションで称えられた。

ジャパン・オープンで舞う山本

 「昨シーズンが終わってから、落ちるところまで落ちて。この先やっていけるのかなという不安もあったけど、環境や自分自身を見つめ直してから、吹っ切れたというか。まだシーズン前半だけど、つかめているものが凄くたくさんある。夢を諦めないで、しっかり〝五輪シーズンに僕もトップで戦っているんだ〟という気持ちを改めて皆さんに見せていけたら」

 昨季途中から拠点を失い、1人で練習を続けてきた。ようやく新たな所属先が見つかったのが、今年7月。浅田真央さんらを育てた山田満知子コーチ、樋口美穂子コーチが指導するグランプリ東海クラブの門を叩いてから、早くも成果が表れた。

大きな挫折 故障と度重なる手術

 トップレベルに身を置き、五輪を目指す21歳。だが、ここまでの道のりは平坦ではなかった。最初に大きな挫折を味わったのが5年前だった。

 15-16年シーズンに全日本ジュニア選手権を制し、シニアも加わった全日本選手権では6位。16年2月に開催されたユース五輪では金メダルを獲得し、瞬く間に平昌五輪候補として注目を集めた。同3月には世界ジュニア選手権を控え、練習に熱が入っていた日々。開催地ハンガリーに出発する当日、悲劇は起きた。

 「スーツケースも車に積んでいて、練習が終わったら空港に行く予定だった。その1週間前ぐらい前から右足首の内側に違和感があって、凄く痛くて。でも〝このシーズンでジュニアを最後にしたい〟〝世界ジュニアで優勝したい〟っていう気持ちも強かった。とにかく追い込んで練習をしていて、疲労が溜まって、トリプルアクセルで転倒した時が最後の一撃だった。〝ボキッ〟っていう音が足首から聞こえたぐらい。立てなくて、意識がもうろうとしてきて、靴も痛くて脱げなかった。すぐに病院に行ったら〝骨折です〟と。初めての大きなケガで、本当に辛かった」

右足首の手術跡

 くるぶしの骨が縦に割けており、手術を決断するしかなかった。横向きと斜めに2本のボルトを入れて固定。入院中、退院後と必死のリハビリを経て、5月に復帰。「治りが良い」と背中も押されて再び氷の上に戻ったが、7月にジャンプを跳んで着氷した際、同じ箇所を痛めた。精密検査の結果、再び骨が離れていた。

 「どうにか手術をせずに治そうという考えがあって、いろんな治療法やリハビリを試してみて…。もう一回、氷の上にも乗ってみた。でも、歩くのも痛くて…。〝やっぱり無理だ〟となって、3本目のボルトを入れる手術をしたのが9月。それでもまだ〝今シーズンをやるんだ〟という気持ちがあった」

 このシーズン、最初の中部選手権は出場が免除されていたが、10月末の西日本選手権に出場しなければ、全日本選手権の道が閉ざされてしまう状況だった。シニアとなってGPシリーズ2戦の出場も決まっており、いったん立ち止まるという選択肢は思い浮かばなかった。2度目の手術を終えてから、本来なら数カ月のリハビリをこなしてから競技に戻るはずが、急ぐあまりにわずか数週間後に再び氷の上に乗ると、すぐに痛みが再発した。

 「3回目の手術をすることになったけど、もうボルトを入れるところがないから、骨を違うところから持ってきて、入れて、みたいな。そこで〝もう休むしかない〟となった。その後のリハビリ生活が、凄く苦しくて。厳しいリハビリを毎日やっても、痛みが引かない。前に進んでいない時間が辛くて〝もう戻れないのかな〟〝前みたいに4回転はできないんじゃないか〟と。その時に、もう辞めて就職した方がいいのかなと思うようになって。家族に相談して、就職のことを話していました」

仲間の支え"1回転"からの再起

 心も完全に折れ、スケートから離れた生活をすることになった。同時に、愛知みずほ大学瑞穂高には毎日、通うようになった。6歳で競技を始めてから、ずっとスケートが生活の中心にあり、小学生の頃から練習や試合で学校を休まざるを得ないことが多かった。突然訪れた普通の学生としての日常が、新鮮だった。

 「スケーターの山本草太ではなく、普通の山本草太としてみんなが接してくれた。ケガのことを分からずに辛いことも言ってくるけど、それでも、楽しくて。修学旅行も高校の時に初めて行った。その中で少しずつ笑えるようになってきて、気持ちも前に向き始めた。その頃から、スケートのチームメートが〝そろそろ滑ったら〟〝足はどう〟と気遣ってくれて。高校3年の5月ぐらい。みんなの励ましがあって、氷に戻ることができた感じでした」

 17-18年シーズンの初戦として控えていたのが、9月開幕の中部選手権。再発する不安などと戦いながら慎重に調整していた山本は、あえてショートプログラム、フリーともにジャンプの構成を全て1回転にした。

 「ケガをする前は3回転や4回転をやっていたのに、1回転だけで試合に出ないといけない。恥ずかしい、出づらい気持ちもあったけど、チームメートや周りが〝ここから再スタートしよう〟と言ってくれた。本当に、みんなのおかげ。仲間がいなかったら、そのまま引退していたと思います」

 ショートが33・05点、フリーが76・01点の合計109・06点。スコアは低くても、新たな一歩を踏み出した。11月の西日本選手権では5位に入り、翌月の全日本選手権では200点超えのスコアで9位に入った。

 以前は目標に掲げていた平昌五輪への出場には遠く及ばなかったが、完全復活に向けた手応えはつかめた。4年後に控えているのは北京五輪。新たな目標に向けて、山本は大きな決断を下すことになる。だが、そこには再び試練が待っていた。=続く=

◇山本 草太(やまもと・そうた)

2000年(平12)1月10日生まれ、大阪府岸和田市出身の21歳。6歳でスケートを始め、中学1年の途中に名古屋へ転居。ジュニア時代は世界ジュニア選手権で銅メダル、ユース五輪で金メダルを獲得。16-17年シーズンからシニアに転向した。19-20年シーズンの全日本選手権で7位。今季は4回転ジャンプをSPで1本、フリーで2本入れている。現在は中京大を休学中。1メートル73。血液型はO型。

▼山本草太選手×Unlim

新たな環境に身を置くことになった山本は、ファンから競技活動の支援金を募るスポーツギフティングサービス「Unlim」に登録した。 「スケートは凄くお金がかかるし、小さい頃から家族にも凄く苦しい思いをさせてしまっていた。普通なら今は大学4年生になっていて、今シーズン限りで引退して社会に出て行かないといけない。でも、〝まだ続けたい〟〝もっと成長したい〟という意欲がある」 一時は引退を考えていたが、モチベーションを取り戻して競技続行を決意。「サポートをして頂くだけじゃなく、僕からたくさん発信したい。ファンの方に何かを届けられるような演技をしたい」と言葉に力を込めた。

▼Unlim(アンリム)とは

ファンがアスリートやチームを金銭的にサポートすることを可能にするスポーツギフティングサービス。「活動資金の不安をなくしてパフォーマンスに集中したい」「自分だけではなく競技そのものを盛り上げたい」「スポーツを通じて社会貢献したい」など、アスリートたちの多様な思いの実現を目指す。対象アスリートは同サービスを通じて、ファンからの応援をメッセージだけでなく、金銭的支援という具体的な形でも受け取ることができる。現在、200以上のアスリートやチームが活用中。