日本ゴルフの父 中村寅吉氏が死去

[ 2008年2月11日 19:55 ]

青木功(右)を指導する中村寅吉氏(78年11月)

 戦後の日本にゴルフブームを巻き起こし、名指導者としても慕われた中村寅吉(なかむら・とらきち)氏が11日午後4時15分、老衰のため神奈川県座間市の相模台病院で死去した。92歳。横浜市出身。自宅は神奈川県伊勢原市岡崎6696。葬儀・告別式は密葬で行う。

 「寅さん」の愛称で親しまれた日本プロゴルフ界の草分け的存在。農家の二男として生まれ、15歳で神奈川・程ケ谷CCのキャディーとなり、20歳でプロゴルファーとして歩み始めた。
 中村氏の名が国内外に知れ渡ったのは1957年に埼玉・霞が関CCで開催された国別対抗戦、カナダ・カップ(現ワールドカップ)。サム・スニード(米国)やゲーリー・プレーヤー(南アフリカ)ら世界の強豪を相手に、小野光一と組んだ団体戦で優勝し、個人でも優勝という快挙を演じた。翌年のマスターズ・トーナメントにも戦後の日本選手として初出場した。
 1メートル58の小さな体。飛距離では劣ったが、月明かりの下で磨きをかけたというパッティングや小技で一時代を築いた。日本オープン選手権を3度、日本プロ選手権も4度制した。シニアになってからも活躍は続き、81年関東プロシニアで、年齢と同じかそれ以下のスコアを出すエージシュートを、プロの公式戦で初めて達成した。
 74年に日本女子プロゴルフ協会の初代会長に就任。指導者としても知られ、同協会の樋口久子会長のほか、安田春雄プロら多くの選手を育てた。日本プロゴルフ協会相談役。

 ▼カナダ・カップ 1953年に「ゴルフ界の五輪」を理念にスタート。67年にワールドカップ(W杯)に名称を変更した。57年には霞ケ関CC(埼玉)で開催され、中村寅吉は小野光一とのペアで出場。サム・スニード、ジミー・デマレの米国に初日に5打差をつけられた。しかし、第2ラウンド後半に猛烈に追い上げて米国を逆転、2ストローク差で首位を奪った。その後もパットを次々と決めて、米国に9打差をつけて優勝。当時としては空前の約5000人のファンが見守る中、中村は個人(当時実施)も制し、日本に最初のゴルフブームをもたらした。

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2008年2月11日のニュース