【阪神90周年企画】伝説のスコアラー三宅博さん バースを不振から救い “守護神・球児”を推した

[ 2025年7月1日 05:15 ]

阪神でスコアラーとして長く活躍した三宅博さん
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 阪神の元スコアラー、三宅博さん(84)は球団のデータ分析の仕組みをつくった人物だ。過酷な手作業の資料づくり、禁じ手の“潜入調査”などの苦労をしながら、1982年から06年までの在籍25年間で3度のリーグ制覇を支えた。現場に寄り添ったレジェンドの記憶から、3冠王2度のランディ・バースが活躍できたワケ、岡田彰布元監督が名将たるゆえんが浮かび上がった。90周年の歴史に、裏方のサポートが彩りを添えている。(倉世古 洋平)

 25年間のスコアラー生活で、多くの虎戦士を見てきた。三宅さんの記憶に鮮明に残るのは「バース」。日本一になった85年。真弓、掛布、岡田ら、きら星のごとき才能の中でも「一番、聞いてきたよ」と懐かしんだ。

 「当時はみんな職人気質で、自分で狙い球を絞っていたんだけどね。バースは“教えてくれ”って。頭が良い選手だったよ。配球もよく覚えていた」

 対戦投手の傾向を伝えるだけでなく、スランプ脱出の手伝いをしたこともあった。87年。本塁打が出ずに苦しんでいた史上最強の助っ人と一緒に、映像をにらめっこして原因を探った。好調時と比べてベース寄りに構えていることを発見。元の離れた位置に修正すると、3試合連続でアーチをかけた。選手の変化を目の当たりにできる。それが、試合前ミーティングで分析結果や癖を伝えるメインの業務とは異なる、スコアラー業のもう一つの醍醐味(だいごみ)だった。

 「一つのきっかけで選手は変わる。ちょっと一緒に映像を見ようと、本塁打と凡打のスイングを見比べさせる。すると“これ僕ですか?全然違う”とヒントをつかむこともある。スコアラーは、データを見るだけではダメ。それぞれの選手を見て接してあげないと」

 天職ともいうべき仕事に就いたのは、82年。阪神での5年間の現役を64年に退き、サラリーマン生活を経て、80年に球団に戻ってコーチを2年間務めた後に打診された。

 当時は手書きの時代。ナイター後のデータ整理は、朝方まで及んだ。ビジターでは深夜、宿舎の屋上で夜風に当たって息抜きをした。必ず会う人がいた。

 「掛布はお酒を飲んで帰ってきても、必ず素振りをした。終わると、三宅さん、ありがとうございますって」

 就任当初、球団には資料づくりのノウハウがほぼなく、一から考案した。直球は黒、カーブは赤。球種ごとに色分けした。球種の記号も編み出した。これらは今もタイガースで使用されている。80年代後半のコンピューター化でも先導役になった。「他球団よりも分析は進んでいたと思う」。スコアラーの体制づくりに果たした役割はあまりに大きい。

 予告先発がない時代は、投手を当てることも重要任務だった。試合前でも分からず、困り果てて広島市民球場の相手ブルペンに忍び込んだことがある。マウンドの形跡で右か左かを突き止めた。広島スタッフに見つかり、冷や汗をかきながら「ブルペンの広さを見せてもらった」ととぼけてその場をしのいだのは笑い話だ。

 8人の監督に仕えた。05年優勝の岡田監督が特に印象に残る。

 「ミーティングで資料を持ってこないし、メモも取らない。なぜなら、前日に渡したデータが全部、頭に入っているから。自宅で全部、覚えて球場に来る。試合後はゲーム内容をスラスラそらんじられる。だから、岡田監督との試合後のミーティングが楽しかった」

 先の先を読む知将に1度、助言を求められたことがある。久保田智之(現2軍投手コーチ)と藤川球児(現監督)、どちらが守護神の適性があるかを聞かれた。

 「バックネット裏から見たら、同じ150キロでも球児は球威が違った。打者はボール2個分ぐらい下を振る。そんな話をした」

 “藤川推し”を、岡田監督が参考にしたかは分からない。ただ、この後、抑えが入れ替わり、藤川が球史に残るクローザーになった。

 84歳になった今、故郷の岡山県倉敷市で暮らす。データを丁寧に集め、資料に息吹を吹き込んだスコアラー時代と変わらぬまなざしで、チームを見つめている。

 ◇三宅 博(みやけ・ひろし)1941年(昭16)6月4日生まれ、岡山県倉敷市出身の84歳。倉敷工で甲子園に3度出場。60年に大阪タイガース(当時)に入団。遊撃手、二塁手として通算46試合に出場し53打数12安打で打率・226。故障で64年に引退。スコアラー時代は4色ボールペンと、分析時に小さな丸を多く書くため、円状のくり抜きがある定規が必須道具だった。08年北京五輪で日本代表のスコアラーを務めた。

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