逆風から始まった松岡修造の“夢” 錦織の登場で認められた意義

[ 2017年5月1日 11:30 ]

修造チャレンジで講義する松岡修造
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「それが夢を追う選手か?」

「お前らジジイだ!今までで最悪だ!」

 大きな声が響いた。声の主は松岡修造である。コートの上はいつもより少し熱い。

 3月、五輪選手の強化拠点である東京都北区の味の素ナショナルトレセンでは、テニスの男子ジュニア強化キャンプ「修造チャレンジ」が行われていた。

 自分に続く選手がいつかウィンブルドンのセンターコートに立ち、勝ってほしい。98年に現役を退いた松岡が願いを込め、いわばセカンドドリームとして立ち上げたプロジェクトである。

 これまで延べ200人のジュニアが参加してきた。幼い錦織圭が練習中に松岡に怒鳴られてベソをかく映像を目にしたことのある人も多いだろう。

 当初は中学生以上だった対象選手も小学生まで拡大し、今は年3回。中身はコート練習だけでなく、専門の指導者を招いてのフィジカル、メンタル、栄養学、語学など、世界で戦える選手を育成するための多岐にわたるメニューが組まれている。

「これは仕事じゃないですね。自分が一番やりたかったことだから」

 テレビやイベントに引っ張りだこの松岡だが、修造チャレンジの日程は最優先で確保し、それから他の仕事を埋めていく。12歳以下の新しいメンバーが集まる6月の合宿では、必ず1人30分程度かけてマンツーマンで打ち合う。

 現役時代に痛めた膝はボロボロ。テニスをした後は毎晩、はり治療が欠かせない。だが、選手の選抜や遠征への帯同などはスタッフに任せるようになった今でも、松岡はそうして参加選手の潜在能力、将来性を肌で感じ、見極めてきた。

 ◆「成功するなんて言っている人は誰もいなかった」

 今ではすっかり市民権を得た感があるが、当初はきわめて冷ややかな視線を浴びて始まったのだという。発足時からのスタッフ、専大の佐藤雅幸教授(スポーツ心理学)はそのギャップの大きさに苦笑いする。

「男子でトッププレーヤーの育成なんて無理無理って感じで、成功するなんて言っている人は誰もいなかった。当時の日本テニス界の定説は、女子は通用するけど男子は修造君がぎりぎり。修造君だって背が高いし、金持ちだから特別という認識だった」

 別のスタッフも言う。

「最初はいろんなところから売名行為と言われた」

 選手を預ける指導者からすれば自分の選手がどういじくられてしまうのかという疑念があり、日本テニス協会や各地域協会からはどうして男子だけなのか、どうして各地域から均等に選手を選ばないのかと組織的な論理から疑問の声が上がった。

 だが松岡は屈しなかった。

 才能ある選手を集め、高いハードルを課していかなければ、男子は世界で勝てる選手にならないという信念があった。熱意と知名度を生かして自らスポンサーを集め、テニスクリニックなどで得た収入も注ぎ込んだ。日本テニス協会も共催で名を連ねていたが、実際には松岡の個人営業だった。

 潮目が変わったのはやはり錦織のブレークである。西岡良仁らが続き男子テニスの底上げが目に見えるようになって初めて、修造チャレンジはその意義をはっきりと認められた。

 2年前からは日本テニス協会主催となり、協会の強化プロジェクトの一環に組み込まれた。

 逆風は10年以上かかってようやく追い風に変わった。

「唯一僕が自慢できるのは、こういう強化プログラムを協会がやっている形として作り上げたこと。それは本当に難しかった」

 普段は苦労を見せない松岡がしみじみと語った。

 ◆練習中も飛び出す修造語録

 松岡自身も変わった。錦織を始め、初期メンバーが久しぶりに修造チャレンジを訪れると驚くことがあるという。

「修造さん、優しくなりましたね」

 今の松岡は選手を圧するばかりではなく、盛り立てて励ますことも覚えた。

「お前うまいよ!凄くうまい!!」

「君ほど変わった子は見たことがない。今すごく良くなってる!今をつかめ!」

 日めくりカレンダーにもそのまま使えそうなセリフを繰り出し、冗談だって交える。

「ボブさん(松岡の現役時代のコーチで、修造チャレンジの指導役も務めるボブ・ブレット)に英語で何か言ってみろ。イタリア語でもいいぞ」

 困惑させるようなことも平気で言う。

「もっっとためてバン!と打てよ。波動砲使えって!波動砲、分かるだろ?」

 ある選手が立教中だと知るや、こんなムチャぶり。

「ラケットを『シュッ』て振るんじゃなくて『バァン!』だよ。言葉じゃ表せないようなフィーリングだよ。それをつかめたらもの凄く良くなる。ほら、言ってみろ。『バァン!』って」

 引っ込み思案なタイプなのか、その子はまるで大きな声が出せない。声出し練習を何度させてもどうにもうまくない。

「どうして、どうして?だって立教なんだろ?長嶋(茂雄)さんなんだろ?」

 熱弁する松岡。よく分からなそうにうなずく選手。周りのスタッフは笑いを押し殺している。まるでバラエティー番組の一コマのようだ。擬音語=長嶋茂雄に基づいた問いかけは、中学1年生との深いジェネレーションギャップの谷に落ちて消えた。

 ◆錦織を叩きのめした熱血指導

 かつてはもっとギスギスとした雰囲気があったという。

 実戦形式の練習で負けて悔しがる錦織が「もう一度やりたい」と泣きながら請えば、「はぁ?」と凄んで返し、また容赦なく叩きのめした。若く、血気盛ん。全てが手探りだったから熱量で全てを押し切っていた。

「最初の3、4年はジュニアの大会はほとんど足を運んだし、それが良かったかは別にして、合宿の内容も強烈だったはず。子どもたちには怖かったと思うけど、テニスを抜きにしたらいい経験にもなったと思う。声を出せない子とかあり得なかったし、昔なら(立教中の)彼はバケツ一杯分泣いてないとおかしいんですよ」

 今は違う。時代の変化、子供の変化。年月を重ねたプロジェクトの成熟とともに松岡もまた変わってきた。

 佐藤教授はその変化を子育てになぞらえた。「最初の子供には厳しくするもんでしょう。やり方が分からないから」

 ポスト・ミレニアル世代の参加選手たちはもう松岡の現役時代など知らない。彼らにこっそりと聞いてみた。松岡修造ってどんなイメージ?

「炎の体育会TVとかでの凄く怖いイメージも、面白いイメージもあった。実際に会うと面白いっていうか、凄く元気」と屈託なく笑っていた。

 理想の上司1位にも選ばれた松岡は、そうした空気の変化を感じながら、熱血一辺倒でなく硬軟織り交ぜた態度で彼らと接する。運営と指導の主たる部分は発足当初から変わらない信頼置けるスタッフに託しながら、時には盛り上げ役になったり、苦言を呈してみたりとその時々で必要な役割を演じている。

「自分にとって修造チャレンジの意義は変わらない。日本テニス協会が手がけて、(国別対抗戦の)デビス杯につながっていって、みんなここでの気持ちを分かってプレーしていく。本当の意味でつながったのは圭からだし、西岡からかもしれない。圭や西岡にはまだ現実味がなかった。どうすればいいのかだんだん僕らも分かってきた。圭や西岡の経験談やデータを交えて伝えることもできる。そういう意味では長いことやってきたのが大きい」

 錦織は松岡を大きく超える選手へと成長した。ウィンブルドンのセンターコートでも勝利を挙げた。それでもまだ修造チャレンジに終わりはこない。変わっていく柔軟さと変わらない志を持って、松岡のライフワークは続いていくのである。(記者コラム・雨宮 圭吾)

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