「いだてん」嘉納治五郎ロス広がる ネット号泣&山下泰裕氏も涙…役所広司ラスト秘話 デスマスクの意味

[ 2019年9月29日 20:45 ]

大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」第37話。77年の生涯に幕を閉じた嘉納治五郎(役所広司)(C)NHK
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 俳優の役所広司(63)がNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」(日曜後8・00)でチャーミングに熱演し、圧倒的な存在感を示してきた“日本スポーツの父”嘉納治五郎(1860~1938)が29日放送の第37話「最後の晩餐」で77年の生涯に幕を閉じた。初回から登場し、金栗四三、田畑政治、古今亭志ん生に次ぐ“第4の主人公”と言えるキャラクターの最期に、インターネット上には“治五郎ロス”の声が続出。チーフ演出を務める同局の井上剛監督に、撮影の舞台裏を聞いた。

 治五郎は1938年(昭13)5月4日、エジプトの首都カイロで行われたIOC総会から帰国する貨客船「氷川丸」の船内で肺炎のため死去。ネット上には「あああ…治五郎先生ロス」「今日は涙腺崩壊しまくりだ」「史実は知っていても、嘉納治五郎の死、受け入れられん」「分かっていたし、覚悟して見たけど、やっぱり悲しい…嘉納治五郎のいない『いだてん』、来週から見れるかな」「五輪旗がかけられた棺。見せたかったなぁ治五郎先生に、東京でオリンピック」などの書き込みが相次いだ。

 「『いだてん』は嘉納治五郎の物語でもあった。良くも悪くも器が大きくて温かくて愛嬌たっぷり、同時にテキトーでワガママで頑固。総じて、愛らしいお方でした。役所広司の凄さを改めて思い知った9カ月でもありました。圧倒的な嘉納治五郎、ありがとうございました」「嘉納治五郎の中に、こんなお年寄りになりたい部分と、こんな年寄りにはなりたくない部分の双方が存在する。すぐそこに、とても身近に9カ月いた生きたキャラクターだった。お疲れさまでした」「演技なのに目を真っ赤にしている役所さん、東京オリンピックへの夢を語る眼が狂気を帯びていた役所さん。役所さんの演技力に圧倒されています」「嘉納先生の…嘉納先生の中の表彰台はずっと1位が空いていて、そこに『東京五輪』が立つ予定だなぁ…東京五輪誘致は先生の戦いだったんだ…長い長い険しい先生の戦いだったんだ…泣」「嘉納先生!一番の思い出は東京オリンピックにしたいんでしょ!死んでる場合じゃないでしか!150歳まで生きるんでしょ!」「『楽しいの?楽しくないの?オリンピック!』。嘉納治五郎の第1話のセリフが思い出されます」「最後の『人生で一番面白かったこと』を話してる時の嘉納先生、良かったな…永久保存版にしたい…本当、役所さんの嘉納治五郎、素晴らしかった…本当、感謝」と役所を絶賛する声、治五郎を労う声も次々に続いた。

 本編に続く「いだてん紀行」も、もちろん治五郎。1984年ロサンゼルス五輪・柔道男子無差別級金メダリストで現在は日本オリンピック委員会(JOC)会長の山下泰裕氏(62)が、その影響力の大きさを語った。「当時の時代的背景を見ますと、日本にオリンピックを持ってくるというのは、とても普通では考えられない。嘉納先生そのものが世界のIOC委員から非常に信頼されいて、命を懸けて日本招致を成し遂げられたと思います。(64年東京五輪で柔道が正式種目に初採用され)柔道って、あの嘉納がつくったんだよな。そういう嘉納先生に対する(みんなの)思いが1964年の柔道の東京開催に(つながった)」と涙ぐみ「日本オリンピック委員会の会長として、嘉納先生の志を受け継ぐ後継者の1人でありたいと、そう思っています」と誓った。

 歌舞伎俳優の中村勘九郎(37)と俳優の阿部サダヲ(49)がダブル主演を務める大河ドラマ58作目。2013年前期の連続テレビ小説「あまちゃん」で社会現象を巻き起こした脚本家の宮藤官九郎氏(49)が大河脚本に初挑戦し、オリジナル作品を手掛ける。20年の東京五輪を控え、テーマは「“東京”と“オリンピック”」。日本が五輪に初参加した1912年のストックホルム大会から64年の東京五輪まで、日本の激動の半世紀を描く。

 勘九郎は「日本のマラソンの父」と称され、ストックホルム大会に日本人として五輪に初参加した金栗四三(かなくり・しそう)、阿部は水泳の前畑秀子らを見いだした名伯楽で64年の東京大会招致の立役者となった新聞記者・田畑政治(まさじ)を演じる。

 役所がダイナミックに演じた治五郎は、講道館柔道の創始者。教育者としても知られ、1891~93年(明24~26)に旧制第五高等中学校(現熊本大学)の校長を務めたことから、1891年熊本生まれの四三とも縁。その後、四三が進学した東京高等師範学校(現筑波大学)の校長も務めた。

 1909年(明42)、アジア初のIOC(国際オリンピック委員会)委員に。1911年(明44)、大日本体育協会(現日本スポーツ協会)を設立し、会長に就任。1912年(明45)ストックホルム五輪は選手団団長として参加し、四三と三島弥彦(生田斗真)を支えた。

 1920年(大9)アントワープ五輪はIOC会長・クーベルタンに直訴状を提出し、マラソンを正式種目に復活。1924年(大13)に完成した明治神宮外苑競技場も、治五郎が「私はあそこ(森)にスタジアムを作る。いつの日か東京でオリンピックを開くために」と夢を抱いたもの。1940年(昭15)東京五輪招致の際は、大胆にも本命・ローマのイタリア首相ムッソリーニに開催地を譲ってもらう“禁じ手”を唱えた。

 四三にとっては人生の恩師。田畑とは、日本水泳チームが大活躍した1932年(大7)ロサンゼルス五輪に一緒に参加し、1940年東京五輪招致で協力。人並み外れた情熱と、ひょうひょうとしたユーモアを兼ね備えた大人物で、明治から昭和の日本スポーツ界の発展を牽引した。

 この日放送の第37話は「最後の晩餐」。戦況が悪化する中、田畑が「こんな国でオリンピックやっちゃ、オリンピックに失礼です!今の日本は、あなたが世界に見せたい日本ですか!」と治五郎に土下座し、東京開催返上を懇願したが、治五郎はカイロで行われたIOC総会に出席。各委員に「私を信じてください」と訴え、東京開催承認に導いた。

 1938年5月4日、カナダ・バンクーバー経由で帰国する貨客船「氷川丸」。治五郎は参加したお茶会から、咳き込みながら自分の部屋に戻る。その後、高座の五りん(神木隆之介)が治五郎の訃報を伝えた。

 田畑は横浜港に寄港した氷川丸に急ぐ。田畑やIOC委員の副島道正(塚本晋也)らが見守る中、治五郎の棺が運び出され、安らかに眠る顔がのぞいた。

 「あまちゃん」「64(ロクヨン)」「トットてれび」のチーフ演出、テレビドラマとドキュメンタリーを融合した「その街のこども」などで知られ、この回を演出した井上監督は初めてデスマスク(死人の顔)を撮影した。

 「治五郎さんの最期は本当は壮絶だったと思います。もちろん壮絶さは多少出しますが、どちらかといえば、みんなに愛された人の最期はどんな感じなのかと考えながら撮りました」と演出の狙いを説明し「普段は撮らないデスマスクを初めて撮ったんです。役所さんも『初めてだよ、棺おけに入ったの』とおっしゃっていました」と明かした。

 「治五郎さんが亡くなったことは五りんの高座シーンで分かっていて、普通は棺の周りに人がいれば、それで成立するんです。亡くなったことを示して、その次のシーンでさらにデスマスクを映すのは、語弊があるかもしれませんが、もう“物”でしかないので、当然、お葬式を題材にした作品だと死に顔が大事になりますが、普通、僕たちの中では粋じゃないんです。視聴者の皆さんだって、あまり死体は見たくないじゃないですか」

 それでも今回、敢えてデスマスクを撮影。「自分でも不思議な感覚で…。たぶん自分の中で、治五郎さんの顔がいつ消えていくか、見たかったんだと思います。治五郎さんを看取ったのは、偶然、氷川丸に乗り合わせた外交官の平沢(和重)さん(星野源)で、一緒に東京五輪招致を頑張った田畑や副島さんをはじめ、劇中の登場人物みんな、治五郎さんの最期の顔を見たかったわけじゃないですか。愛すべき人の最期なので、自分としては普段はしないデスマスクまで撮るぐらい、治五郎さんの人生を撮り切りたい気持ちだったということだと思います」と理由を語った。

 治五郎が最期、平沢に手渡したストップウオッチは田畑に託された。井上監督は「これが重要なアイテムになります」と予告。1940年東京五輪は結局、戦争のため幻に。ドラマは終盤、戦後へ。治五郎の遺志は1964年(昭39)東京五輪招致へ受け継がれる。

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