【内田雅也の追球】“乱れ”を許す境地 ピンチで粘る阪神・藤浪 今季まだ適時打ゼロ

[ 2021年4月10日 08:00 ]

セ・リーグ   阪神9ー2DeNA ( 2021年4月9日    横浜スタジアム )

<D・神>初回、佐野をニゴロに抑え、ベースカバーに走る藤浪(撮影・坂田 高浩)
Photo By スポニチ

 今季初勝利をあげた阪神・藤浪晋太郎で光るのはピンチでの粘りである。試合後のヒーローインタビューでも「正直良い内容とは言い難いですが、何とか粘れたかなと」と話していた。「最近、ピンチも多いが、何とか粘りのピッチングができているので、そういうところがいい風に出たのかなと思う」

 1回裏は2四球の後、4番・佐野恵太、5番・宮崎敏郎を切った。3回裏は投手・浜口遥大への四球から1死満塁を招いたが、再び佐野、宮崎を切って乗り切った。

 7回裏に関根大気に浴びた2ランは2死一塁とピンチではなかった。すでに9―0と大量リードしていたこともある。

 今季3試合、走者得点圏で20打数3安打、被打率・150。満塁では8打数無安打に封じている。5失点は内野ゴロ、暴投、ボーク、そして2ラン。つまり1本の適時打も許していない。崩れそうで崩れない。乱れても踏ん張っているのだ。

 当たり前のことだが、野球ではいくら塁上に走者を背負っても、本塁さえ与えなければ失点にはならない。

 この“乱れる”“崩れる”は投手だけに使われる言葉だと1980年代に活躍した野球批評家・草野進が『どうしたって、プロ野球は面白い』(中央公論社)に書いている。打者は勘が“狂っている”という方がぴったりくる。そして<投手は、乱れ、崩れるものであり、それを認めまいとする哲学は、時代遅れのロマン主義にすぎない>。

 恐らく、藤浪は“乱れ”や“崩れ”を投手として当然のこと、あるいは自分の持ち味だと肯定的にとらえられるようになったのではないか。これまでは、崩れまい、乱れまいと完璧を求め、暗いトンネルか、袋小路に迷い込んでいたように感じていた。

 <仏さまが「今のあなたでいい」と言っている>と東京の密蔵院住職・名取芳彦(ほうげん)が『気にしない練習』(三笠書房)に書いている。仏教語で「如実知自心」(にょじつちじしん=実のごとく自分の心を知る)という。<弱い自分を自覚し、それを何とかしたいと思っている自分を認めようということ>。さらに<「できない自分を自覚して、できるようにしようとしているあなたでいい」と言っているのです>。

 著書のタイトル通り、「気にしない」姿勢が肝要なのだ。何しろ、藤浪はもう十分にがんばっているのだ。

 親交ある「お股ニキ」は『セイバーメトリクスの落とし穴』(光文社新書)で、白黒ではなく中間の灰色に真理があると記している。分析はさすがで、印象的だ。野球は<相反する要素の両立が多くの場面で必要とされる。0か100かの二元論からなるべく脱却し、最適なバランスを探っていくことが求められる>。

 人間は誰しも弱い存在である。孤独のマウンドに立つ投手は余計だろう。大阪桐蔭高から入団して3年連続2けた勝利をマークした。ところが以後数年、苦闘を続けた。苦しい日々はしかし、決してムダではなく、人間的に成長していたのだ。9年目、もうすぐ27歳になる。

 100%を求める完璧主義を捨て去り、今は乱れる自分も許せる。この境地こそ強みだとみている。=敬称略=(編集委員)

続きを表示

2021年4月10日のニュース