伝説Vをつかんだ男が振り返る波乱の野球人生 審判として闘将と渡り合い、今は土のスペシャリスト

[ 2021年1月14日 09:00 ]

猛虎の血―タテジマ戦士のその後―(3)渡真利克則さん

現在は阪神園芸で鳴尾浜球場の整備を担当している渡真利克則さん(撮影・大森 寛明)
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 阪神が日本一に輝いた85年、リーグ優勝のウイニングボールを手にした渡真利克則(58)は、今でもグラウンドに立ち続けている。引退後はセ・リーグ審判員としてプレッシャーと闘い、体調不良で倒れてからは阪神園芸のグラウンドキーパーとして鳴尾浜の土を守っている。何よりも野球が好きな男が静かに、そして熱く、阪神の新人合同自主トレを見守っている。

 最後の打球は抑え・中西清起への投ゴロ。バースに代わり、一塁に入っていた渡真利克則のミットに白球が収まると同時に阪神のリーグ優勝が決まった。1985年10月16日、神宮球場。歓喜のシーンは繰り返し流れ、六甲おろしのカラオケ映像にも使われた。

 「あの場面は野球人生の宝。マネジャーから最後のボールはしっかり確保するように指示されていたので必死でした」

 その渡真利を待っていたのは激動の人生だった。89年に外野手として71試合に出場、打率・301を記録したが、翌年オフに池田親興らとともにダイエーへトレード。92年に引退した。ネクストステージに選んだのは審判員。2軍戦を経験し、米国の審判学校にも学びジャッジを磨いた。

 的確な判断、きぜんとした対応を心がけ、13年間の審判員生活で退場を命じたことはなかった。中日時代の星野仙一監督に激しい抗議を受けたこともあるが、一歩も引かなかった。後日、闘将は「よう頑張っとるな」と声をかけてきた。充実した日々だが、常に重圧にもさらされていた。

 06年4月21日、東京ドームでの巨人―阪神戦で事件は起きた。球審を務めた渡真利は、4回、井川慶の投球の際に意識を失い、矢野輝弘に覆いかぶさるように倒れて担架で運ばれた。担当医は復帰に問題なしと診断したが、現場は難しいと審判部は判断。これが最後の担当試合となった。

 「それでも自分は現場が好き。グラウンドに関わりたかった」。セ・リーグ関西事務所での内勤をへて10年から阪神園芸に再就職。ファンから神整備と評されるグラウンド整備のプロに加わった。思えば沖縄・興南高3年夏、甲子園大会2回戦で渡真利はランニング本塁打を放った。「スパイクが入るサクサクという音は忘れない」。その感動を伝えようと土と向き合った。

 現在は鳴尾浜球場の整備を担当。昨年12月にグラウンドを掘り起こし、1月の自主トレに向けて仕上げてきた。「水加減が一番、難しい」と常に目を光らせ、甲子園に近い状態を維持。2軍監督時代の掛布雅之から「いい感じだ」と声をかけられ、現2軍監督・平田勝男にも温かく見守られる。ドラフト1位・佐藤輝明ら新人たちの動きを見ながら、渡真利は練習で荒れたグラウンドの整備を続けていた。=敬称略=(鈴木 光)

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