気がつけば40年(11)84年ロスで見た「オリエンタル・エキスプレス」郭泰源の快投と巨人、西武争奪戦

[ 2020年8月24日 08:00 ]

ロス五輪米国戦で158キロをマークし、12奪三振の快投を見せた台湾のエース・郭泰源。1984年8月2日付スポニチ東京版
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】1984年、7月の中旬だった。小西良太郎運動部長に「おまえ、ロスに行けるか?」と聞かれた。ロサンゼルス五輪である。

 行けるも行けないもない。行きたいに決まっている。パスポートはあるし、報道用のIビザも2年前、巨人のグアムキャンプに行く際に取得したのが生きていた。

 「行けますよ」「じゃあ行ってくれ」で即決。現地時間7月28日の開幕まで2週間を切った時点で急きょ出張することになった背景には、公開競技として20年ぶりに行われる野球に出場する台湾のエース、郭泰源の存在があった。

 五輪終了後は日本球界入りすると言われていた「オリエンタル・エキスプレス」。複数球団が獲得に乗り出し、西武は坂井保之球団代表と中村芳夫渉外担当、巨人は沢田幸夫スカウト、大洋(現DeNA)は湊谷武雄スカウト部長をロスに派遣するという。

 誰か野球担当を行かせた方がいいという話になり、私にお鉢が回ってきたのだ。担当球団の西武は7月15日の時点で首位に11・5ゲーム差の5位に低迷。前年の日本シリーズで巨人を倒した達成感が強すぎ、田淵幸一や山崎裕之らベテランが一気に衰えた感があった。

 25日に渡米する際、成田空港で西武の根本陸夫管理部長の姿が目に入った。近づいて「なにしに来られたんですか?」と聞いたら「おお、ちょっとな」。ギョロッとした視線の先には台湾人らしき2人。当時は閲覧できた搭乗者名簿を見ると「Kuo」の名前があった。「郭」である。

 ロス到着後、郭泰源の兄の義煌氏が乗っていたことが分かった。もう一人は陳潤波氏。現役時代は名遊撃手として鳴らし、社会人の合作金庫、ココナッツで監督を務めた台湾球界の重鎮である。監督時代に義煌氏を指導した縁から郭家と親交があり、泰源の後見人というべき存在だった。2011年に80歳で亡くなった陳氏は2017年に台湾の野球殿堂、台湾棒球名人堂入りを果たしている。

 根本氏は5年前、島田誠や柴田保光をプロ球界に送り込んだ福岡の社会人チーム、あけぼの通商の池田義定社長を通じて当時高校生だった郭泰源の存在を知り、陳氏、郭家との関係を構築してきた。渡米を前に23日に来日した2人を東京でもてなし、成田で見送ったのである。

 その2人をロスで待ち受けていたのは、先乗りしていた坂井代表と中村渉外担当だ。私はロス到着後、プレスセンターで現地支局職員名義の取材証を私名義に換えてもらうと、イエローページを見てロス市内の主要ホテルに片っ端から電話をかけた。坂井代表を探すためだ。しかし、どこにもいなかった。それもそのはず、義煌氏、陳氏を含めたご一行様は7月にオープンしたばかりのビバリーヒルズのホテルに泊まっていたのだ。

 やっと坂井代表を見つけたのは野球競技の初日、ドジャースタジアムだった。開会セレモニー直後の米国―台湾戦。外野に近い一塁側内野席で義煌氏、陳氏と一緒に観戦していた。ライバル球団が近づけないように2人をガードしているかのようだった。

 一方、巨人・沢田スカウトの姿はネット裏にあった。24日に渡台して義煌氏を訪ねたが、空振りに終わった。無理もない。義煌氏は東京で西武のおもてなしを受けていた。29日にロス入りしてからも義煌氏とは接触できないままだった。

 台湾から来た記者に郭泰源の去就について聞くと、みんな「巨人に行くと思う」と答える。「西武では?」と振ると全員に否定された。巨人は棒球協会関係者を通じて強くプッシュしていて、台湾の記者はその筋から話を聞いていたらしい。

 さて米国―台湾戦。初めて目にする「オリエンタル・エキスプレス」は衝撃的だった。右肘がムチのようにしなり、スリークオーターから繰り出される速球は糸を引くようにミットに吸い込まれる。ドジャースのスカウト、アーサー・ダーウィン氏が構えるスピードガンは「98マイル」を表示した。約158キロだ。

 スライダー、シンカーも織り交ぜ、ドラフト1巡目指名を受けた7人の大学生がスタメンに並ぶ打線を6回まで無失点。7回、ジョン・マーザノに右中間スタンドへ運ばれ、さらに守備の乱れでもう1点失った。1―2で敗れはしたが、8回12奪三振。24アウトの半分を三振で奪う投球は圧巻だった。

 8月7日、準決勝の日本戦に先発したときは別人だった。初回2死一、三塁で広沢克己(明大)の打球を右足首に受けたのもあって速球は94マイル、約151キロ止まり。5回、4番・荒井(日本石油)右越え三塁打で1点の先制を許したところで降板した。

 翌8日の3位決定戦で韓国を破って銅メダルを決めた後、初めて日本人記者団の前に姿を見せた郭泰源は「西武に入りたいと思います。お父さんがそうだったからです」と打ち明けた。この年の5月に病気で他界した父・耀洲氏の遺志に従ったという。早くから郭家との関係を育ててきた西武の勝利だった。

 あきらめきれない巨人は一発大逆転を狙って台湾の英雄、王貞治監督の極秘訪台を検討したという。そんな気配を察したか、西武の坂井代表は迅速に動いた。8月15日に台湾入りし、16日に義煌氏立ち会いの下で正式契約。そして17日、台湾棒球協会の同意を取り付け、晴れて西武・郭泰源が誕生した。(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの64歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。還暦イヤーから学生時代の仲間とバンドをやっているが、今年はコロナ禍でライブの予定が立っていない。

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