“闘将”八重山商工・伊志嶺監督、グラウンドに別れ

[ 2016年7月17日 11:15 ]

八重山商工・伊志嶺吉盛監督

 今夏、62歳の個性派監督がグラウンドに別れを告げた。今夏限りでの勇退を決めていた八重山商工の伊志嶺吉盛監督。10日の沖縄大会準々決勝の嘉手納戦で延長11回の接戦の末に敗れ、最後のユニホームとなった。

 06年に春夏連続で甲子園出場。センバツでは初戦で高岡商を下し、聖地初勝利を挙げた。「きょうは死んでもいいと思って投げた」。試合後、そう話したのは17三振を奪い5安打2失点完投した当時のエースで現ロッテの大嶺祐太だ。2回戦の横浜戦では6点ビハインドを終盤に1点差まで追い上げ、そのセンバツで優勝した横綱を土俵際まで追い詰めた。夏は1回戦で現広島の丸を擁する千葉経大付を延長10回の激闘の末に下すなど、2勝を挙げた。

 アイデアに富み、実行力のある人だった。石垣島に生まれ育ち、78年に同校の野球部監督に就任。83年に家庭の事情で一度は退任した。94年に少年野球チーム「八島マリンズ」を創設。大嶺や打線の核だった金城長靖ら甲子園メンバーはそこで小学2年から野球を始めた。98年には硬式球に早く慣れるために中学硬式野球の「八重山ポニーズ」をつくった。02年にアジア大会で優勝を果たし、世界大会でも3位に輝いた。大嶺らは小中高で「一貫教育」を受けて才能を伸ばした。

 情熱的な人だった。とにかく野球が好き。03年に請われて同校に監督に復帰したが、石垣市から派遣される形で報酬は5万円。それでも私財を投じて打撃マシンやネットを購入した。仕事は高校の授業中に仕事が終わるゴミ収集業に転じて指導に没頭した。監督に再び就任した直後は厳しい指導についていけない選手が次々と辞めて、部員がわずか2人になった時もあった。座右の銘は、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)。どんな苦難にも逃げずに真正面から受け止める、性根のすわった人でもあった。

 離島のハンディは大きく、06年春夏以降の甲子園出場は果たせなかったが、八重山商工の台頭が与えた影響は大きかったと思う。08年センバツで沖縄尚学が優勝し、10年には興南が春夏連覇。沖縄の高校野球のレベルアップに貢献した。

 沖縄大会はきょう17日が決勝戦。八重山商工を破った嘉手納と美里工がともに夏の甲子園初出場を懸けて激突する。10年前の夏、闘将が率いて聖地を沸かせた八重山商工にも負けないチームの出現に期待したい。 (記者コラム・森 寛一)

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2016年7月17日のニュース