【レジェンドの決断 谷佳知1】「打って当たり前」仰木監督の言葉が転機

[ 2015年12月24日 11:30 ]

仰木監督(左)からはオリックス入団時から多くのことを教わった谷

 12月上旬、都内。少しふっくらした谷の顔には「パパ」の優しさがにじむ。引退後の日課は自宅から車で数十分のアイスホッケー場に9歳と6歳の息子を送迎すること。もう、眠れない時の素振り用で枕元にバットを置く習慣もなくなった。

 「引退して体重は3キロ増えた。“もう野球をやらなくていい”と思うと凄く気が楽ですね」。42歳はそう言って笑った。

 通算1928安打。ここ数年は「2000安打」が自身の目標であり、ファンの期待も感じていた。「本音を言えば、2000本を打つまで何年でも現役を続けたい。でも、それだと所属するチームにも、家族にも迷惑が掛かる」。9月16日に現役引退を表明した。その数日後、福岡に出向き、プロ入りした時の監督だった恩師・仰木彬氏の墓前で手を合わせた。

 「こんなに長くプロ野球でプレーできました。本当にありがとうございました」

 決してエリートではなかった。大学でもプロから声は掛からず、社会人の三菱自動車岡崎入り。96年アトランタ五輪で銀メダルを獲得し、同年にオリックスから2位で指名され、念願のプロ野球選手になった。当初は「プロの壁」を痛感する。投手が投げる直球の伸びや変化球の切れに驚いた。だから、ヒットを打てば喜んだ。新人だった97年5月だった。安打を放ち、一塁ベース上で白い歯を見せた。攻守交代でベンチに戻った際、仰木監督に雷を落とされた。「プロはヒットを打って当たり前や!」。胸に突き刺さった。恩師の言葉によって、感情を表に出さないクールなプレースタイルが確立。好不調の波も減り「当たり前」のように安打を量産した。

 もう一つ、胸に刻んだ恩師の言葉がある。2年目の98年、下半身のコンディション不良で思うように体が動かなかった練習後、監督室に呼ばれた。「俺の仕事は何か知ってるか?お前がどんなコンディションでも、名前をスタメン表に書くことや」。全幅の信頼を感じた。「あの言葉を掛けられて“ケガで休む”という考えがなくなった。だから成長できたと思う」。その後にイチロー(現マーリンズ)、田口(現2軍監督)と最強の外野陣を形成。オリックスでの活躍は恩師への感謝を体現した結果でもある。

 06年オフにはトレードで巨人に移籍した。大阪出身ながら、幼い頃から巨人ファン。憧れの原監督が現役時代に背負った背番号「8」をつけた。新天地では大きな喜び、深い悲しみも味わった。(山田 忠範)

 ◆谷 佳知(たに・よしとも)1973年(昭48)2月9日、大阪府生まれの42歳。尽誠学園―大商大―三菱自動車岡崎を経て、96年にドラフト2位(逆指名)でオリックス入団。01年にプロ野球記録のシーズン52二塁打、02年盗塁王、03年最多安打のタイトルを獲得。通算1888試合に出場し、1928安打で打率・297、133本塁打、741打点、167盗塁。家族はシドニー、アテネ五輪柔道女子48キロ級金メダリストで、現在は参議院議員の亮子夫人と2男。1メートル73、77キロ。右投げ右打ち。

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