名将の道へ…受け継がれる広岡イズム 師匠が語る「工藤という男」

[ 2015年10月30日 07:30 ]

1982年4月、工藤(左)の投球を見つめる広岡監督

SMBC日本シリーズ2015第5戦 ソフトバンク5-0ヤクルト

(10月29日 神宮)
 日本一連覇を果たしたソフトバンク・工藤監督の源流となっているのは「広岡野球」だ。西武に入団した1982年当時の指揮官が、名将の広岡達朗氏(83)。プロ1年目から起用され、通算224勝を挙げた。今でも会えば、直立不動になる師匠の目から見た「工藤という男」とは――。辛口エールも交え、当時を振り返った。

 かつての愛弟子の工藤監督が就任1年目で日本一を成し遂げた姿を見届けた広岡達朗氏は「オレは自分の責任の中で一生懸命教えてきた。工藤も教えるのが好きなんだってね。うれしいですよ。西武の連中が監督をやっているのは、うれしいですし、特に工藤は好きなんです」と喜んだ。

 2人の運命は81年のドラフト会議にさかのぼる。5位まで指名が終わり、ほとんどの球団は選択を終了。西武のプランも当初は打ち切りだった。就任したばかりの広岡監督は、隣にいる根本陸夫管理部長(故人)に何げなく、質問を投げた。

 「アマで一番、いい投手は誰ですか?」。即答で名古屋電気(現愛工大名電)の工藤の名前を挙げた。ただ、社会人野球の熊谷組への入社が決まっており、各球団は指名を見送ることが「暗黙の了解」だった。

 「獲れなくて、もともと。権利だけは取ってくださいとお願いした。周りは密約があったんじゃないかと言うけど、出来レースでも何でもない」

 6位指名で入団した左腕の第一印象は「頭のいい坊や」だった。「頭がいいから2軍だと(プロ野球を)なめて遊んでしまう。カーブは1軍でも使えると思い、1年目から1軍に置いた。逆に(83年の)1位だった渡辺久信は真面目で練習はするけど変化球を投げられなかったからね」。狙い通り、高卒1年目の82年から日本シリーズで起用できるまでの急成長を遂げる。春季キャンプでも投内連係だけで2時間を費やし、投手は目をつむっても一塁ベースを踏めるよう、徹底的に鍛えた。工藤監督自身も「広岡野球」は自分の源流になったと事あるごとに繰り返す。

 最後に広岡氏らしい辛口の助言を送った。「このチームは王、秋山が上手に指導したから、きょうがある。来年、再来年と選手たちが変化する時、どうするか。西武時代の野球をやっていれば間違いはないですよ」。西武を指揮した4年間で3度のリーグ優勝、2度の日本一へ導いた名将は、そう笑った。

 ◆広岡 達朗(ひろおか・たつろう)1932年(昭7)2月9日、広島県生まれの83歳。呉三津田高、早大を経て54年巨人入団。同年打率.314で新人王。66年の引退まで通算1327試合で打率.240、117本塁打、465打点。引退後は広島、ヤクルトでコーチ。76年シーズン途中にヤクルト監督に就任。78年にはチームを初のリーグ優勝、日本一に導く。82~85年は西武監督としてリーグ優勝3回、日本一2回。92年野球殿堂入り。95、96年にロッテGMを務めた。

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