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猪木さん 「また旅に出たい」訃報4日前に語っていた夢

[ 2022年10月3日 04:30 ]

闘魂百景(上)レスラー編

1987年3月、マサ斎藤さん(左)へ延髄斬りを決めるアントニオ猪木さん(撮影・原 悦生)
Photo By 提供写真

 スポニチOBでフリーカメラマンの原悦生氏(66)はアントニオ猪木さんを撮り続けた第一人者。半世紀に及ぶキャリアで撮りためた膨大なショットの中から、珠玉の“闘魂”を追悼企画として本紙に掲載する。レスラー、政治家、プライベートの猪木さんの姿を、貴重なショットとともに3回連載で振り返る。

 猪木さん宅で食事をともにしたのが亡くなる4日前の9月27日だった。

 「“また旅に出たい”とおっしゃっていた。夢を語っていたぐらいだから、亡くなったと聞いた時は“まさか”と思いました。掛けたい言葉は“ありがとうございます”。それしかないですね」

 猪木さんを撮らせたら右に出る者はいない。1972年の新日本プロレスの旗揚げシリーズから撮り続けた。

 「他のレスラーと違って猪木さんだけは試合展開が読めない。特に大きなシングルマッチだと全く読めない。猪木さんは引き出しが多くて、仮に(技を)失敗してもアドリブが利くんです。だから撮っていて面白いし、撮り飽きない人でした」

 猪木さんが考案した「延髄斬り」。跳び上がって相手の後頭部を蹴る必殺技で、美しさも追求してきた。1試合で300~600回のシャッターを切った原氏も延髄斬りを撮るのは特にこだわった。

 「猪木さんの延髄斬りは“きれいに高く飛ぶ”のが信条。後頭部に向けて上から下に足の甲を振り落とすイメージなんです。87年3月のマサ斎藤戦で繰り出した延髄斬りは、足の甲の角度から振り下ろしているのが分かると思います。相手の背が高ければせめて平行に蹴る。跳躍の高さが魅力的でした」

 必殺技のナックルパートを撮る時は、拳を構えているところでシャッターを切った。

 「拳を打ち付けている時よりも、構えている時の方が歯を食いしばって目を見開く形相になる。怒りの表情がとてもさまになる人で、そこに燃える闘魂を感じた人も多いのではないでしょうか」

 ◇原 悦生(はら・えっせい)1955年(昭30)12月9日生まれ、茨城県出身の66歳。高校1年の時から猪木さんを追って写真を撮り続け、早大卒業後、80年にスポニチに入社。86年に退社しフリーに。今年3月、写真本「猪木」を出版した。

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