【阪神90周年企画】猛虎と歩んだ球団歌「六甲おろし」は現存する12球団最古で最強の応援歌

[ 2025年4月17日 05:15 ]

球団結成披露宴(1936年3月25日・甲子園ホテル)で配られた球団歌の歌詞が付いたメンバー表=若林忠晴さん提供=
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 六甲颪(おろし)に颯爽(さっそう)と――の歌い出しで知られる通称「六甲おろし」は、正式には『阪神タイガースの歌』という球団歌だ。球団創設初年度1936(昭和11)年から歌い継がれている。本拠地・甲子園球場に吹く風と言えば「浜風」が有名だが、なぜ「六甲おろし」なのか。球団創設90周年に、あらためて謎に迫った。 (編集委員・内田 雅也)

 タイガースの球団歌が初めて公開されたのは1936(昭和11)年3月25日、甲子園ホテル(今の武庫川女子大甲子園会館)で開かれた球団結成披露宴の席上だった。

 宴席には阪神間の知名士約200人を招待していた。パンフレットに監督・森茂雄、主将・松木謙治郎以下が記されたメンバー表とともに球団歌『大阪タイガースの歌』全3番の歌詞が記されていた。出席者にはそのレコードが配られた。

 球団は前年35年12月10日に設立。36年1月10日に名称が「タイガース」と決まったことを受け、球団歌の制作に入った。同日、入団発表した若林忠志が仲介の役目を果たした。

 ハワイ出身の若林は法政大で東京六大学リーグ通算87試合(史上最多)に登板、43勝(史上4位)をあげた。35年3月に卒業後、川崎市に本拠地を置く社会人・コロムビアに進んだ。同年8月の都市対抗(神宮)では「七色の魔球」で準優勝に導いていた。

 決勝戦のスタンドでは名門レコード会社らしく、専属作曲家の古関裕而が指揮を執り、ブラスバンドが演奏。同社所属の三浦環、淡谷のり子ら人気歌手が応援に駆けつけた。

 球団歌をつくる際、若林の人脈が生かされ、コロムビアが制作にあたった。作曲を古関、作詞は詩人の佐藤惣之助に依頼した。若林の次男・忠晴(86)は「作詞作曲とも父がコロムビア時代に親交があったコンビを紹介したと聞いています」と話していた。

 佐藤はコロムビア本社のあった川崎市(当時川崎町)で生まれ育った。元は詩人で、34年に東海林太郎が歌った『赤城の子守歌』がヒットするなど、人気作詞家でもあった。

 レコードはコロンビア専属の歌手・中野忠晴が歌い、2月21日に録音された。SP盤で制作枚数は200~300枚と伝わる。

 歌詞は勇壮で耳によくなじむ。印象的なのは歌い出しの「六甲おろし」だろう。甲子園に吹く風と言えば、夏場に右翼から左翼に吹く「浜風」が有名だ。「六甲おろし」は六甲山系から吹き下ろす北風で、反対に中堅から右翼に向けて吹く。主に冬の寒風として、または春、秋に吹く。

 川崎出身、東京で活動していた佐藤は甲子園や六甲おろしを知っていたのだろうか。

 佐藤は全国各地を渡り歩く詩人だった。1922(大正11)年には沖縄を訪れ、『琉球諸嶋風物詩集』を著した。詩碑が首里城公園に建っている。

 関西も旅で訪れていた。球団歌作詞の12年前、1924(大正13)年刊行の詩集『水を歩みて』に兵庫県伊丹町(現伊丹市)の墨染寺(ぼくせんじ)を訪ね、江戸時代の俳諧師・上島鬼貫(うえじま・おにつら)の墓を詣でたとある。

 <折から 折からに 秋もほのくれ>。訪問は秋の夕暮れだった。旅の身で用意なく、近くにあった鶏頭を手折って供えたと詩が続く。耳にしたのは<露いっぱいの虫の音 空いっぱいの寂び音>。

 秋に伊丹に吹いていた北風を肌で感じていた。その六甲おろしにタイガースの力強さや勢いを重ね合わせたのだろう。この詩が刻まれた詩碑が墨染寺近くの公園、西の町児童遊園地に建っている。

 佐藤は釣りが趣味で甥で養子でもあった詩人の佐藤沙羅夫(本名・宗三)は2003年、本紙の取材に「大阪湾でも釣りをしていました。その時の風を思い起こして歌詞が浮かんだんじゃないでしょうか」と話していた。

 創設初年度36年のプロ野球は全国各地で開く大会のポイントで順位が決まり、優勝決定シリーズは12月の開催。優勝が決まるのは冬、つまり六甲おろしが吹く季節だった。

 完成した球団歌は36年に始まったライバル阪急との定期戦でスタンドの応援団が斉唱した。阪神は黒黄のタテジマに虎の顔が描かれた陣羽織を着て、かねや太鼓を打ち鳴らした。「西の早慶戦」とも呼ばれた応援合戦で阪急も『阪急職業野球団応援歌』を歌った。

 40年9月、タイガース後援会が発足し、甲子園庭球会館で発会式があった。球団創設の中心人物だった本社専務・細野躋(のぼる)は社史『輸送奉仕の五十年』で<ライスカレー程度であったが選手達と一緒に食事をして(中略)皆が打ち解けてタイガースの歌を歌ったりしたものである>と回顧している。

 球団歌は61年、球団名が阪神タイガースと改称され、歌詞を改めるため、関係者に了解を取った。佐藤は42年5月、51歳で他界していた。古関「オウから大阪へ移っていく言葉の響き、語感の盛り上がりから、以前のものにより懐かしさを感じる」と語った=『阪神タイガース 昭和のあゆみ』。オウとオオサカで韻を踏んでおり、古関も作詞の意図を感じ取っていた。

 62年10月3日、セ・リーグとなって初のリーグ優勝を果たし、甲子園球場の東側にあった虎風荘で祝勝会が開かれた。ビールかけが行われ、オーナー(本社社長)・野田誠三の音頭で万歳三唱。そして<だれかが歌い出した「タイガースの歌」につれて大合唱が始まった>と当時の本紙が伝えている。

 『阪神タイガースの歌』と改題された61年に歌手・若山彰が歌ったカバー盤がコロムビアから発売となり甲子園で流れるようになったが、一般には知られていなかった。

 同曲を有名にしたのは朝日放送(ABC)のパーソナリティー、中村鋭一だった。71年に始まった朝のラジオ番組で阪神が勝った翌朝「さあ、いくでー、六甲おろしや」などと言いながら歌いあげた。「六甲おろし」という通称も中村が名づけ、関西圏に広まった。

 『六甲おろし』は85年の優勝、日本一で全国区となった。少年時代から阪神ファンだった作詞家・阿久悠は<『六甲おろし』のことは知らなかった。昭和六十年に初めて耳にしたのである>と著書『愛すべき名歌たち』に記している。

 以後は多くのタレントや歌手がカバーし、断トツの人気、知名度を誇っている。現存する12球団で最古で最強の球団歌となった。 =敬称略=

 ≪「夏目漱石も認めた天才」佐藤惣之助≫
 ○…佐藤惣之助作品に詳しい東海道かわさき宿交流館元副館長の小笠原功さんは「佐藤惣之助は芥川龍之介と親交があり、夏目漱石も認めた言葉の天才」としたうえ「プロの作詞家が少なかった当時、歌謡曲やご当地ソングの依頼にも応じていた。タイガースの歌は応援歌ということでリズムに乗せやすい言葉を選んでいる」と話した。「市民も六甲おろしが川崎で作られたことを誇りにしている」。生家跡の川崎信用金庫本店前には生誕の地碑が建ち、一昨年優勝時には「六甲おろし」の歌碑が設置された。

 ≪巨人や中日の球団歌も作曲 古関裕而≫
 ○…作曲の古関裕而は球団から依頼を受けた当時、既に早大第一応援歌『紺碧の空』や『日米野球行進曲』とスポーツ音楽で定評を得ていた。『大阪タイガースの歌』の後、巨人球団歌『巨人軍の歌(闘魂こめて)』、中日の旧球団歌『ドラゴンズの歌(青雲たかく)』も手がけている。阪神球団歌は全国高校野球選手権大会歌『栄冠は君に輝く』、64年東京五輪の『オリンピック・マーチ』と並ぶ代表作。「作曲家として音楽を通じ日本野球の隆盛に貢献した」として一昨年1月、野球殿堂入り(特別表彰)を果たした。

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