繰り返されたレイカーズの空の悲劇 60年前にも航空事故 運命を左右した“大地”の違い

[ 2020年1月27日 13:03 ]

二女ジアナちゃんとキスを交わす故ブライアント氏(AP)
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 元レイカーズのコービー・ブライアント氏は26日に起きたヘリコプターの墜落事故で死亡したが、レイカーズにとってはチーム史上これが60年ぶり2度目の重大な“航空事故”となった。

 最初にアクシデントに見舞われたのは1960年1月18日。当時ミネソタ州ミネアポリスを本拠にしていたレイカーズは、遠征先のセントルイス(ミズーリ州)からホークス戦を終えて、貨物機を改造した専用機でホームに帰る途中だった。

 しかし途中で電気系統が故障。機内は真っ暗になり、プロペラだけは動いていたが無線の電源も確保できなくなった。セントルイスに戻る選択肢もあったが、Uターンの途中ですべての機器が止まった場合には都市部に墜落する恐れもあったため、バーン・ウルマン機長は“直進”を決断。最悪の場合、民家のない山間部に突っ込んで“自爆する”というシナリオを想定していた。北への進路はハロルド・ギフォード副操縦士がコックピットの窓を開けて北極星を探しだして確保。機内の温度は氷点下となった。

 何度かハイウェーへの緊急着陸を試みたが、道が曲がりくねっていたことや、吹雪で視界が不良だったこともあって断念。ここで実家が農家だったギフォード副操縦士が「北東部の冬の畑は雪で埋まっています」と、ミネアポリスの南346キロに位置しているアイオワ州キャロルにいう町に広がる畑への不時着を提案。ウルマン機長はこのアイデアを採用し、レイカーズの監督、コーチ、選手を乗せた「DC―3」は新雪に覆われたトウモロコシ畑に着陸した。新雪のおかげで機体は短時間で減速。90メートルほど滑走してストップした。

 幸いにも全員が無傷で無事。この一件は“奇跡のタッチダウン”として紹介され、レイカーズというチームが存続できた要因にもなったが、ブライアントを乗せたヘリコプターは60年前とは対照的に乾燥したカリフォルニアの大地に砕け散ってしまった。

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