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東日本大震災発生から13年 津波で3人の子供を失った木工職人「子供が生きた証をつくっていく」

[ 2024年3月12日 05:30 ]

工房で作業する遠藤伸一さん
Photo By スポニチ

 2万2000人以上が犠牲になった東日本大震災の発生から13年となった11日、各地で追悼式典が行われた。宮城県東松島市で工房を営む木工職人の男性はあの日、津波で石巻市の自宅にいた3人の子供を失った。その後、娘を津波で亡くしても我が子の夢をかなえようとする米国人夫妻との出会いなどを経て、生きる意味を取り戻した。福島県浪江町では、津波で流失した神社の社殿が再建された。2月中旬には、約300年の歴史がある祭りも行われた。(佐藤 昂気)

 遠藤伸一さん(55)の工房「木遊木(もくゆうぼく)」には作りかけの本棚が置かれていた。米国から補助教員として来日した石巻市で、津波の犠牲になったテイラー・アンダーソンさん(享年24)を記念した「テイラー文庫」の本棚だ。読書好きのテイラーさんの遺志を継ぎ、両親は被災地に本を贈り続けている。「子供がぶつかると危ねえから、角は全部削って丸っこくするんだ」。遠藤さんが優しくほほ笑んだ。

 あの日、子供3人を失った。中学1年で13歳の長女花さん、小学4年で10歳の長男侃太(かんた)さん、2年で8歳の次女奏(かな)さんが津波にのまれた。

 地震は、仕事を終えてトラックで移動中に発生。急いで石巻市内の自宅に向かい、花さんと母恵子さん(81)の無事を確認すると、小学校にいた侃太さんと奏さんを自宅に連れ帰った。比較的新しい建物で安全と考えたからだ。その後、安否確認に行った親戚宅からの帰りに津波に巻き込まれたが何とか助かり、近くの保育所で一夜を明かした。

 翌朝戻ると自宅は津波に流されていた。そばには奏さんを抱いた恵子さんがいた。「ごめん、奏ちゃん冷たいんだ、冷たいんだ」と涙ながらに伝えられた。その後、数十メートル流された自宅で砂まみれの花さんを発見。「生きる意味を失い、侃太を見つけたらもう終わってしまいたいとすら思った」。侃太さんの遺体は約10日後に見つかった。

 「俺のせいだ。親としては最悪の判断だった」。我が子を自宅に連れ帰った自身を責めた。津波は想定をはるかに超える規模で非難されるものではないが、深い後悔と喪失感が消えることはなかった。

 そんな気持ちを変えてくれたのが、知人に頼まれた「テイラー文庫」の棚作りだった。11年夏ごろ、妻綾子さん(55)に、子供3人がテイラーさんの教え子だったと聞き「本棚作ったら子供たちはうれしいかな」と思えた。9月の贈呈式で、テイラーさんの両親と対面。“日米の架け橋”を目指した娘の夢をかなえるため活動する姿に心が動いた。「子供が生きた証をつくっていくという生き方なら、俺はまだ生きていて良いのかな」と思えた。

 以来、石巻市内の小学校などに木製ベンチを寄付したり、震災後の子供たちの遊び場となる公園に屋根付きベンチを作るなど、亡くなった3人を思うかのように、精力的に活動してきた。現在は、自宅跡近くに子供たちが音楽を楽しめる施設「レインボーシアター」を建設中。活動を通じて縁ができた、関西の会社の提案を受けて始まったプロジェクトだ。

 震災から13年。花さんが生まれ、親として過ごしたのと同じ年月が流れた。悲しみを忘れるように仕事に打ち込んだからだろうか。「凄いスピードだった」と振り返る。一方で「子供たちの成長は当時のまま止まっているし、自分だけが取り残されている」と感じることもあるという。

 3人を失った悲しみは消えない。それでも「出会った人たちの思いに助けられてきたから、無理に前進する必要はないとも思えるようになった」。子供たちや関わった大人たちの喜ぶ顔が、少しずつ生きる力をくれた13年だったのかもしれない。

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