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福島出身Jリーガーの京都・安斎悠人、東日本大震災がサッカー人生のきっかけになった

[ 2024年3月11日 05:30 ]

福島市で被災した東日本大震災を語る京都・安斎
Photo By スポニチ

 3月11日が来た。被災地の福島県出身のJリーガーは多くはいない。高校を卒業する前にJ1デビューを果たした京都・安斎悠人(18)は2月25日の開幕・柏戦で起死回生の同点ゴールを決めた。J1開幕戦で得点した高校生ルーキーは城彰二と高原直泰の日本代表FWに続く3人目。福島から日本を背負う期待の若手は東日本大震災を経験している。安斎と震災はどのようにつながってきたのだろうか。

 ―東日本大震災の時のことを覚えていますか?
 安斎 5歳で保育園の年少組で。お昼寝の時間だったかな…おゆうぎ室でした。めっちゃ揺れて、先生たちに囲まれたのか、机の下にもぐったのか…。それからのことはあんまり覚えていなくて。お母さんが迎えにきて帰ったことは覚えています。あの時は、被害がどこが凄くてとかも分からなかった。とにかく揺れがデカかったなって。立っていられたのかどうかも覚えてないくらいデカい揺れでした。

 ―地震の後が大変だった。
 安斎 ご飯とか近くのスーパーに取りに行って。水もそんな感じでした。水道水が出なかったから。家は大きな被害はなかったんですけど、食事は大変だった記憶があります。水が出なくて、町の人が来てそこに並んで水を取りに行って。お風呂とかそんな感じでしたね。

 安斎の実家は福島市内。JR福島駅から車で10分ほど。春に桜が咲き誇る観光名所の「花見山」にほど近い場所だ。内陸部だから津波の被害はない。だが、福島第一原発が被災し、放射能汚染が懸念される状況となり“安斎少年”の生活は変わった。

 ―原発の被災で放射線が問題になった。
 安斎 外に出る時は首から機械を下げるんです。ちょうどこれくらい(スマホより小さく、録音器ほど)の大きさです。緑色の。何か分からない数値が書いてあって。それをずっと付けていたイメージがありました。お母さんに嫌だ嫌だって言ってた…。そんな記憶があります。地震の後は保育園とか行けなかった。ずっと家で。外に出してくれってお母さんにずっと言ってました。家で起きて、ご飯を食べて、風呂に入って、寝て…みたいな繰り返し。結構キツかったです。

 ―外でボールを蹴ったりできなかった?
 安斎 学校が終わったらすぐに帰って家で待機していましたね。あんまり(外での)遊びとかダメみたいな感じだったんで。

 ―サッカーを始めたのは小学2年生。その頃からは外で遊べた?
 安斎 最初はボールを“壁当て”して遊んでいましたね。ウチは比較的自由に遊ばせてあげたいって方針だったんで、僕は結構、自由にしてもらっていました。誘っても親がダメっていう友達もいましたし、そういう制限のある家は多かったですね。僕がずっと壁当てしていたら、近くの親戚の息子さんが誘ってくれたんです。その時は中2か中3でサッカーをやっていて。その人が入っていたチームが南向台小の体育館で練習していて「良かったらどうだい」みたいな感じでした。

 被災後は一人で壁を相手にしかサッカーできなかった安斎だったが、サッカーができる場所を見つけた。

 ―被災者として、東日本大震災をどう受け止めていますか?
 安斎 小4くらいになるとある程度、理解できる年齢になるんでビデオ見たりとか、他の地域の人はどんな活動をしているのかとか。「生活」っていう科目があって、学んだ記憶はあります。3・11は本当に悲しい日。小学校でふざけるヤツとかいなかった。そういうときは本当にみんなちゃんとしていたことを覚えています。

 ―中学生の時は福島ユナイテッドのジュニアユースでプレーしていた。
 安斎 トップチームの試合前にプロの人と一緒に地域の方々とティッシュを配ったり、清掃活動やってましたね。石川の地震は元日?選手権に負けて解散した日だ。車で宿舎から移動していたんですが、道脇に止めてニュース見ている人が多かったですね。チームメートの西川はメンバーを外れていたんで早めに石川に帰っていたんですよ。最初は電話もつながらなくてちょっと焦りました。家にいたけど大丈夫って言ってました。そうですね、京都でも募金活動をやりました。

 福島県内の強豪・尚志高は県外の選手も多い。安斎は福島プライドを持って尚志高の門を叩いた。

 ―尚志高の仲村浩二監督が福島県内出身の子がプロの世界まで行ってくれるのは凄く嬉しいと話していた。
 安斎 福島県のチームですけど福島の選手がなかなか見当たらなくて本当に福島のチームなのかと。お父さんに聞いても、それだけ県外の選手が常時いて行っても難しいぞって感じだった。僕は負けず嫌いなんで。県外の人に負けるってイメージもなかったんで、絶対自分ならできるって思って。(尚志高が)県外の選手だけじゃない方がいいな…それくらいの考えで入りました。

 ―2年前にも福島で震度6弱の地震がありましたね。
 安斎 あ、ありました。あれ、結構遅い時間でしたよね。僕だけ寝てました。関東から来ているヤツらはアラーム(緊急地震速報)が鳴ってるから騒いでいて。自分は友達に起こされて寮の食堂に全員集まった。それからグラウンドに出たら揺れも収まったので寝たって感じでした。
 
 3・11を経験している安斎だから肝がすわった対応ができた。そして、安斎の開幕戦ゴールが一人の人生を変えた。

―開幕戦でのゴールを振り返ってもらえますか?
 安斎 チョウさん(チョウ貴裁監督)にメンバーを発表された後に2人で話した時に、その責任っていうのを改めて厳しく伝えてもらった。自分で決心がついたというか、自分がどういう選手でなきゃいけないのか、立ち居振る舞いを含めてどうあるべきなのか、一から考え直した。試合に出たら、うん、やるしかないって。責任も含めて自分もやらなきゃいけないと言う思いでピッチに立って。時間も時間で89分くらいに出たから多分ワンチャンスあるかないかって思っていたし、本当にゴールできて嬉しかった。

 ―たくさんのお祝いがあったと思いますが、印象的なメッセージはありましたか?
 安斎 (尚志高の)仲村監督から「ゴールを決めたけどやっぱり謙虚に。周りを気にせず謙虚にやれ」ってLINEが来てて。嬉しかったですけど、もう次だなって切り替えることが出来た。開幕ゴールを決めたところであと何十試合残ってるんで。それに向けてまた準備するだけだなっていうふうに思えた。あと、高校でずっと一緒に2人組でやってきた高瀬大也。ケガしちゃって選手権に出なかったこともあって高校選抜にも入れなくて。結構、悔しい感じだった。僕も電話してたんですけど、もうちょっとサッカーを続ける気がないみたいな感じになっちゃてて…。僕が「サッカーやれよ」みたいに言っても全然、響かない感じだった。ゴールを決めた後に「お前から刺激をもらって改めてサッカーを頑張ろうと思う」って、続けていくって決めたみたいなメッセージが来て。卒業式でも会ったんですけど、自分のゴール一つでそうやってまた友達が、うん、またサッカーをやってくれるっていうのもちょっと大事だな。些細なことでもなんか嬉しいなって。

 安斎は自ら局面を打開するドリブラー。日本代表MF三笘薫(ブライトン)のプレースタイルと似る。自らを磨き、京都・チョウ貴裁(チョウ・キジェ)監督の信頼を深めてさらなる高みを目指す。被災地・福島で培ったプライドを持って。

 ◇安斎 悠人(あんざい・ゆうと)2005(平成17)年4月25日生まれの18歳。福島県福島市出身。南向台小の時にサッカーを始める。プロサッカー初観戦は小4の時に「日産スタジアムでのクラブW杯バルセロナ戦」。当時から海外志向が強かった。渡利中に進学すると福島ユナイテッドのジュニアユースチームに加入。県内の強豪・尚志高に進んだ。22年度と23年度の全国高校サッカー選手権に出場。23年U―17日本高校選抜、U―18、U―19日本代表。1メートル76、68キロ。利き足は右。

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