【内田雅也の追球】ヘッドスライディングの心 10年前に引退した阪神・矢野監督の勝利につながる姿勢

[ 2020年9月25日 08:00 ]

10年9月25日、2軍での引退試合を終えナインに胴上げされる矢野
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 阪神監督・矢野燿大にとって、きょう25日は忘れられない日である。10年前、2010年9月25日、現役選手として最後の試合に出た。当時41歳だった。

 鳴尾浜球場でのウエスタンリーグ・中日戦である。既に9月2日に現役引退を表明していた。この2軍最終戦は同じく引退する下柳剛(現野球評論家)と最後のバッテリーを組む予定だった。

 矢野は最後の試合に向け準備するなか<ある思いを秘めていました>と翌11年3月に出した著書『考える虎』(ベースボール・マガジン社新書)で明かしている。<それは一塁へのヘッドスライディングです>。

 現役20年間で一塁へ頭からすべり込んだのは1度きりだった。中日でまだ若手だった1994年7月16日、ヤクルト戦(神宮)、優勝争いの緊迫する空気のなか、代打で遊ゴロを放ち、無我夢中だったそうだ。

 誰でも特別なはずの最後の打席で、なぜヘッドスライディングなのか。<ファンへのメッセージ>であり<若手、中堅選手に何かを伝えられるかもしれない>と思ったと記している。

 <何か>とは姿勢である。引退を決めてからも炎天下や蒸し風呂のような室内で変わらず練習を続け、ウエートトレーニングも欠かさなかった。<練習をコツコツ続けることではい上がってきた>という野球人生を全うした。その最後を象徴的に飾るには泥だらけになるプレーがふさわしいと思ったのだろう。

 結果は左前打でヘッドスライディングはかなわなかった。ただ、2軍優勝のかかった試合で、決勝の生還を果たした。

 試合後、阪神の選手たちから、そして古巣中日の選手たちからも胴上げされ、矢野は「感謝しかありません」と、涙をこぼした。

 1軍でも引退試合は用意されていた。9月30日の横浜(現DeNA)戦(甲子園)である。勝ち試合の9回2死から出場し、藤川球児とバッテリーを組む予定だったが、先に村田修一に逆転3ランを浴びてしまい、出場機会はなかった。

 1970~90年代、大リーグ・ロイヤルズ一筋に活躍したジョージ・ブレットを思う。通算3154安打、首位打者3回の左打者だ。40歳で現役を退く93年、「最後の打席」について「平凡なセカンドゴロを打ち、一塁で間一髪アウトになりたい」と語っている。著書『強い打球と速いボール』(ベースボール・マガジン社)にある。

 99年1月、米野球殿堂入りを果たした際には「どんな打球でも全力疾走を忘れなかった選手として人々の記憶に残りたい」と語っている。

 矢野と同じ「凡打疾走」の精神である。地味で泥臭いが、決してあきらめない心、チームを思う心の表れだと言えるだろう。

 あれから10年がたつ。矢野は昨年50歳で監督となった。引退後、多くの本を読み、多くの人と出会い、ずいぶんと視野が広がったようだ。それは本人も認めている。

 それでも、あのヘッドスライディングを思った原点に変わりはない。現に監督として選手に凡打疾走を求めている。

 「そんなことで勝てるのか」という問いには、「勝てる」と言いたい。

 ブレットは先の書に書いている。<セカンドゴロでも精いっぱい駆け抜ける反応や反射を身につけ、うまくやってやろうとする欲やプレッシャーに負けずにプレーできるよう努力することが、同時にメンタルトレーニングをしていることになるのだ>。つまりは、ひたむきさを説いている。

 一塁へヘッドスライディングする姿勢、凡打疾走は、勝利に直結する心だと信じている。=敬称略=(編集委員)

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