【内田雅也の追球】引き継がれる「土」の心――阪神、全国の3年生球児に甲子園の土を贈呈

[ 2020年6月9日 08:00 ]

日本野球連盟関西支局長・小島善平氏のアルバムにあった戦前の甲子園球場グラウンドキーパー長、米田長次さん=1940年ごろ撮影・小島昭男氏所蔵=。キャプションには「甲子園の宝 米田の長さん」とあった
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 甲子園球場はこの夏8月1日で96歳になる。その土には長い間グラウンドを守り続けてきた先人たちと、球児たちの汗と涙がしみこんでいる。

 球場建設の1924(大正13)年、土を配合したのは阪神電鉄用度課セメント係の石川真良(しんりょう)だった。慶大エースで米国遠征もした経験が買われた。

 土を探し歩いた。西宮・甲山は粘土質の赤茶色で適さず、尼崎・蓬川の土は乾けば白くなってダメだった。決めたのは神戸・熊内の土。晩年、故郷の秋田・払戸中で英語と野球を学んだ教え子から「最高の土で、握ればふわっと、滑ればぱあっと土煙があがった」と聞いた。今の黒土に通じている。さらに淡路島の赤土を混ぜた。球場建設地は廃川にした枝川・申川の跡地で白砂はふんだんにあった。これらを配合して初代の土が仕上がった。

 この土を整備したのが28年にグラウンドキーパー長となった米田長次だった。「長さん」の愛称で親しまれた。日本野球連盟(今の日本野球機構)会長・鈴木龍二はその姿勢をたたえ、38年に表彰し「甲子園の宝」と呼んだ。連盟関西支局長・小島善平の遺族から借りたアルバムにも記されていた。鈴木は<甲子園を恋人、わが子のように可愛(かわい)がった。風が吹けば、雨が降れば、夜でも甲子園に走っていった>と著書『プロ野球こんなこと』(ベースボール・マガジン社)で書いた。

 米田の弟子が後に「甲子園の土守(つちもり)」と呼ばれる藤本治一郎である。藤本は米田について<ベレー帽に葉巻をくわえ、ポケットには横文字の新聞を入れたダンディな男>だったと著書『甲子園球児一勝の“土”』(講談社)で紹介している。

 この土守の精神は辻啓之助や今の金沢健児と引き継がれている。土の仕入れ先は変わったが、土守たちの汗の結晶であることに変わりない。

 もちろん、土には球児たちの汗と泥が、さらに甲子園を目指して汗と泥にまみれた球児たちの思いが詰まっている。

 甲子園で敗れた球児たちが土を持ち帰る。藤本はその光景を好んだ。「全国に土が広がっていく。土をつくる私の、ひそかな楽しみです」

 土を持ち帰った「第1号」は49年、夏3連覇に挑んで敗れた小倉(当時小倉北)の福嶋一雄だとされる。準々決勝で敗退し、退場する際、無意識に一握りの土をポケットに入れた。帰郷後、自宅に届いた大会審判副委員長・長浜俊三の速達でその存在を知る。

 いや戦前37年夏の決勝で敗れた熊本工・川上哲治が持ち帰り、母校にまいた逸話もある。大会50年史にも記されている。

 福嶋から聞いた話を思い出す。「僕は第1号じゃありません。甲子園ができた時から多くの球児が土にまみれて戦った。多くの先人たちがユニホームにつけて、故郷に持ち帰っていますよ」

 阪神球団が全国約3800校の3年生約5万人に甲子園の土を贈る。8日に発表となった。失意の球児たちにこのうえない激励となるだろう。何とも素晴らしい。この夏届く土には多くの人びとの思いがこもっている。今後の人生の糧となればと願っている。

 今年はコロナ禍で春夏とも甲子園大会が中止となる異常事態だった。大会中止は先の戦争以来だが、戦争中とは違って、土とその心はこの夏も全国津々浦々に広がっていく。

 藤本は39年夏の優勝投手、海草中(現向陽)の嶋清一や、タイガースの景浦将、巨人の沢村栄治ら、多くの野球人が戦死したことを悲しんだ。先の著書の末尾で<何ごとにおいても「歴史を知る」ということが肝心だ>として、強調している。<素晴らしい才能を有したまま戦火に散った選手も数多くいることを知って頂きたい。平和なグラウンドで野球に没頭できる幸せ(中略)を痛感するのである>。

 戦争での中断の間、甲子園のスタンドは軍需工場や施設となり、グラウンドは戦車置き場となり、サツマイモが植えられた。当然ながら土を持ち帰る球児もいなかった。

 阿久悠が作詞したセンバツ大会歌『今ありて』に<踏みしめる 土の饒舌(じょうぜつ) 幾万の人の想(おも)い出>とある。甲子園の土には思いがこもっている。すばらしいことに、今年は全国の球児に配られる。先人と球児が年々積み重ねてきた土の心が、途切れずに引き継がれる。=敬称略=(編集委員)

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2020年6月9日のニュース