【内田雅也の猛虎監督列伝~(12)第12代・藤本定義】「心の力」を高めた「おやじ」 悲願の胴上げに涙

[ 2020年5月1日 08:00 ]

優勝を決め、選手たちに胴上げされる藤本定義監督(1962年10月3日、甲子園球場)=阪神球団発行『タイガース30年史』より=

 監督・藤本定義は1962(昭和37)年<年が明けると「早く練習をやりましょう」と選手からけしかけられた>。著書『覇者の謀略』(ベースボール・マガジン社)にある。<選手が非常に意欲的になった>、それは<心の力>だと書いた。

 1月11日から甲子園で合同自主トレ、15日からバッテリーが高知市でキャンプを張った。野手は巨人OBの打撃コーチ・青田昇に任せた。滝川中時代から知る青田はヘッド格だった。オーナー・野田誠三(本社社長)も歯に衣(きぬ)着せぬ放送解説、新聞評論に「的を射ている」と気に入り、招請していた。

 本紙記者・荒井忠は<二人そろうと強気なことばかり言っていた>と振り返る。藤本は「優勝のメドはついている」、青田は「力は巨人や大洋(現DeNA)に劣っていない。実力を出してなかっただけや」と、積極思考をうながした。

 巨人戦になると藤本はわざと監督・川上哲治に「オイ、テツ」と声をかけた。藤本は川上が巨人入団当時の監督で文句を言えない。自著に<巨人など屁のカッパという気持ちを植えつけねばならない>と巨人コンプレックス一掃に努めた。

 前年不調だった小山正明や吉田義男が先頭に立った。村山実は最高潮の時期だ。荒井は見ていた。<不満不平をあいさつにしていた選手から愚痴がなくなり、代わって夢が出てきた>。選手を包み込むような藤本を<阪神に必要なのはこの“おやじ”だった>。

 藤本は開幕前に年間を通しての先発予定表を作った。巻紙に筆で日付、対戦相手を書き「コ、ム、……、休、コ、ム、……」と記した。コは小山、ムは村山。ローテーションシステムが確立されていない時代、両エースを軸に<一番の苦労は長期戦でいかに波を少なくもっていくか>とシーズンを見通していた。

 ペナントレースは巨人がBクラスに沈み、三原脩率いる大洋との優勝争いとなった。終盤9月25、26日の直接対決(川崎)で秋山登に2日連続の完封を喫して窮地に立たされた。阪神優勝の条件は残る4試合に全勝し、大洋が7試合で4敗という状況だった。阪神は4連勝したのに対し、大洋は1勝6敗。見事、逆転で優勝は成った。
 優勝が懸かった10月3日、シーズン最終戦の広島戦(甲子園)で小山が完封して6―0の快勝。2リーグ分立後初、15年ぶりの優勝を決めた。ファンも加わった胴上げで藤本は泣いていた。勝負師の涙だった。試合後、この年3月に完成した合宿所「虎風荘」で祝勝会が開かれ、今で言う「ビールかけ」も行われた。

 2日後の10月5日には甲子園から尼崎、神戸と回るパレードは歓喜に包まれた。同日、表彰選手も発表となり、最高殊勲選手(MVP)は村山だった。村山25勝、防御率1・20に、小山は27勝、1・69で、13完封はプロ野球新記録だった。落選した小山にセ・リーグ会長・鈴木龍二は特別に優秀功労賞を贈った。藤本は優勝監督に贈られた欧州旅行を小山に譲った。

 東映(現日本ハム)に敗れた日本シリーズ終了後、大毎(現ロッテ)が小山のトレードを申し込んできた。阪神は断った。だが3位に終わった63年オフ、4番打者・山内一弘との交換で「世紀のトレード」が成立した。

 藤本は計算できる先発投手の放出には反対だった。失った片輪は62年夏に入団テストから獲得したジーン・バッキーにかけた。藤本は投手コーチに中日OBの杉下茂を招き、バッキー育成を委ねた。迎えた64年、そのバッキーは29勝をあげ、優勝の立役者となった。

 終盤、首位・大洋に3・5ゲーム差で残り7試合。阪神は大洋戦の4勝を含め6勝1敗が優勝の条件だった。藤本も「優勝はあきらめた。このまま引き下がるのは業腹だ。大洋を痛めつけて、三原に一泡ふかせてやろう」と開き直った。

 バッキーは先発・救援で5試合連投で3勝、奇跡の主役となった。優勝決定は9月30日の中日ダブルヘッダー(甲子園)第1試合。打線爆発で全員得点の12点をあげ、2年ぶりの優勝を決めた。
 藤本は小山放出の穴埋めを考え<所期の計算通りの優勝>とし<感銘の深い>と記した。3年間で2度優勝の黄金時代だった。=敬称略=(編集委員)

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