野村氏 ONへの反骨心が657本の原動力 「月見草」は1カ月前から考え抜いたコメントだった

[ 2020年2月12日 05:30 ]

野村克也氏死去

60年7月のオールスターでホームスチールを試みる巨人・長嶋を阻止する南海の野村
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 月明かりの中で、ひっそり咲く花。巨人の王、長嶋の「ON砲」をヒマワリに例えた野村氏は、自身を「月見草」と称した。まぶしいライバルへの強烈な反骨心を原動力に、野村氏は打者として一時代を築いた。

 王がセンバツ甲子園の優勝投手。立大出身の長嶋は東京六大学のスターだ。自身は無名の存在で、テスト生として南海に入団。そこからバット一本ではい上がり、65年に戦後初の3冠王に輝いた。さらに8年連続を含む9度の本塁打王に、打点王を7度受賞。70~77年は南海で選手兼監督も務めた。

 「自分をこれまで支えてきたのは王や長嶋がいてくれたから。彼らは常に人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目の触れない場所で寂しくやってきた」。そして言った。王、長嶋がヒマワリなら、俺はひっそりと咲く月見草だと――。75年5月22日、日本ハム戦で通算600号本塁打を達成。記事を大きく取り上げてもらおうと、1カ月前から考え抜いたコメントだ。後楽園は観衆わずか7000人。巨人は73年までV9を達成し、圧倒的な人気を誇っていた。その陰に隠れてバットを振り現役では南海からロッテ、西武とパ・リーグで「生涯一捕手」を貫いた。

 南海の本拠地は狭い大阪球場。無理に力を入れずともコンパクトに打てばフェンスを越える。バットを長く持って遠心力を使えば打球は飛ぶが、確実性は減る。グリップを余らせて握りながらも本塁打を量産するスタイルは、王と同じだった。

 王の歴代1位の868本塁打に対し、野村氏は同2位の657本塁打。王が自身以来の3冠王に輝いた73年に本数を抜かれた。当時38歳。現役終盤に差し掛かるも「600号は先に打つ」と闘志を燃やし、500本台後半で激しく競り合った。「本塁打の数でノムさんの記録に追いついていった時、頑張って並走してね。ノムさんも凄い抵抗をして、意地を見せていた。お互いに理解して認め合って、尊敬もしていた」と王氏は振り返る。熱い魂。それはヒマワリも月見草も、同じだった。

 《データ》野村と王の通算本塁打数は73年開幕時は野村551本と王534本で17本差。野村は7月8日に563号を放ってから約1カ月本塁打なし。8月8日に王に追いつかれた。その後はデッドヒート。野村は15日に初めてリードを許したが2度追いつき26日には同日アーチ。しかし、27日以降は追いつけず6本差をつけられ579本。翌74年は野村12本塁打、王49本塁打で突き放された。

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2020年2月12日のニュース