前田祐吉氏&石井連蔵氏を特別表彰 伝説の「早慶6連戦」指揮

[ 2020年1月15日 05:30 ]

<2020野球殿堂入り通知式>記念撮影を行う(前列左から)田淵幸一氏、斉藤惇・理事長、故・前田祐吉氏の息子・大介氏、故・石井連藏氏の息子・拓藏氏、(後列左から)山中正竹・法友野球倶楽部会長、大久保秀昭・慶大野球部前監督、小宮山悟・早大野球部監督 (撮影・西川祐介)
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 伝説の「早慶6連戦」から60年。節目の年に、両チームを青年監督として率いた故前田祐吉、故石井連蔵の両氏が殿堂入りした。

 3回戦を終えて勝ち点4で並び、翌日から優勝決定戦。2試合連続引き分けで、再々試合の6試合目に早大が勝利した。当時30歳の慶大・前田監督は生前「戦力は慶大が上。勝たせられなかった…」と悔やんでいたという。学生には学業にも力を入れるよう唱え、「学業と野球を両立させるのは指導者の義務、モラル」との指導方針だった。

 この日の通知式には、早慶6連戦で4試合に登板した慶大OB・清沢忠彦氏(81)が出席。自主性を重んじる前田監督の「監督は庭師。あまり木を切っちゃ駄目なんだよ」との言葉が印象に残っており「当時は夢中だった」と振り返った。

 一方の早大・石井監督は当時28歳。「鬼の連蔵」の異名で厳しい指導に定評があった。早慶6連戦の際の早大主将・徳武定祐氏(81=元国鉄、中日など)は「あの6連戦は私の人生そのもの。石井監督は自分にとってオヤジだ」。3回戦では徳武氏の本塁への激しいスライディングにより、両チームが乱闘寸前となった。

 神宮球場には連日、6万人以上の観客が押し寄せ、NHKと民放のほぼ全局で放送された。伝説をつくった2人の指揮官はその後、ほぼ同時期に2度目の監督も務めた。前田氏はアジア野球連盟事務局長として野球の普及に尽力。石井氏も日米大学野球実現に奔走するなど、ともに球界発展に大きく寄与した。

 ◆前田 祐吉(まえだ・ゆうきち)1930年(昭5)9月22日生まれ、高知県出身。高知・城東中(現高知追手前高)では投手として46年の全国中等学校野球大会に出場。慶大を経てニッポンビール(現サッポロビール)でプレーした。60年に慶大監督に就任。65年に退任し、82~93年にも監督を務めた。リーグ優勝は通算8度。96年アトランタ五輪では全日本アマチュア野球連盟強化対策委員長として銀メダルに貢献。16年1月7日没。享年85。

 ◆石井 連蔵(いしい・れんぞう)1932年(昭7)6月26日生まれ、茨城県出身。水戸一から早大に進学。4年時に主将。投手兼一塁手として活躍し、54年秋には打率.375で首位打者に輝き優勝の原動力となった。日本鋼管入社後、58~63年に早大監督。朝日新聞社勤務を経て、88~94年に再び早大を指揮した。計13年で4度のリーグV。96年秋から約2年間、水城で高校野球の監督も務めた。15年9月27日没。享年83。

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