内田雅也が行く 猛虎の地<23>別府「日名子旅館」

[ 2018年12月26日 09:00 ]

「分裂」で消えた「阪神・荒巻」

かつて日名子旅館があった場所。現在は家電量販店とマンションになっている。
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 別府の繁華街、流川にあった日名子旅館には戦後1948(昭和23)年から49年にかけて、プロ野球関係者が相次いで訪れていた。目当ては「火の玉投手」と呼ばれた左腕・荒巻淳である。

 社長の岡本忠夫は野球好きで、監査役を務める建設会社、星野組で社会人チームを持っていた。日名子は星野組の選手宿舎でもあった。

 選手の勧誘は監督兼一塁手の西本幸雄が窓口となったが「荒巻だけは別」。荒巻は岡本の次女・ヨシ子と結婚し「若旦那」でもあった。岡本が後見人として仕切った。

 星野組は荒巻の快投で48年都市対抗(後楽園)で準優勝、49年には優勝。荒巻は橋戸賞(最高殊勲選手賞)を受けた。

 争奪戦は激しかった。巨人は48年春に別府で合宿し日名子に泊まった。荒巻にユニホームを着せて練習させたとデマが飛んだ。阪急は監督・浜崎真二が公式戦中に試合を抜けて別府に渡った。大映は後楽園に女優陣を応援に出し、映画館の経営権まで提示、衆院議員・大麻唯男も動かした。

 この争奪戦の勝者は阪神だった。別府に幾度も足を運んだ代表・田中義一から「阪神の金庫には今も荒巻の契約書がある」と聞いたと、野球記者・大和球士や評論家・大井広介が書いている。

 監督兼投手・若林忠志が監修、48年3月発行の雑誌『ボールフレンド』創刊号に選手名鑑の<入団噂の人々>として<荒巻淳>の名がある。阪神の獲得への動きは早かったことが分かる。

 荒巻の行方を特集したスポニチ本紙(大阪本社発行版)49年11月20日付によると、8月14日、大陽戦が大分であった際、阪神ナインは日名子に宿泊。後楽園で星野組が優勝した当日でもあった。<選手一同に一本ずつビールがつき「もし息子が阪神に入ったときは一番お世話になるのはあなただから」と土井垣捕手には特に席を改めて歓待した>。このかぎかっこは義父の岡本だろう。

 荒巻も認めている。75年発行の関三穂編『戦後プロ野球史発掘(1)』(恒文社)で語っている。「私としては阪神に好感を持っていた。伝統にあこがれを持っていた。若林さんもいましたし。東京より大阪の方が船で行くには近い。家内とも話して、おやじ連中は僕が契約すれば納得してくれるだろうと仮契約をやったわけです」。49年9〜10月と思われる。

 ところが新たにプロに加盟する毎日が巻き返しにかかった。毎日は都市対抗前に主催社として荒巻らを招き「今度プロを作る。その時はぜひ頼む」と協力を要請していた。「小野賞」にその名を残す小野三千麿、後の初代監督・湯浅禎夫ら重鎮が日名子を訪れ、岡本を口説いた。経営危機にあった星野組の選手全員を雇い入れるという。荒巻は岡本から「急いで阪神の方を取り消せ」と叱られ、大阪まで出向き、契約破棄を頼み込んだ。

 戦後の野球人気沸騰、新規加盟が相次ぐ球界再編期で、連盟は2リーグに分裂した。私淑する若林も理想を求めて新球団・毎日に移り、荒巻も後を追った。=敬称略=(編集委員)

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