内田雅也が行く 猛虎の地<21>堺市「鶴岡一人邸」

[ 2018年12月24日 09:00 ]

「幻の鶴岡監督」の不可解人事

中モズ球場跡地に建つマンション。鶴岡邸もこの近くだった
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 鶴岡一人は南海(現ソフトバンク)一筋に生き、監督として歴代最多1773勝をあげた。そんな名将を阪神は2年連続で監督招請を公表したうえで失敗した。1968、69(昭和43、44)年、ともに秋の話である。

 大監督の招請と聞こえはいいが、内情は不可解で本気度も疑わしい。

 68年10月21日、監督・藤本定義が秋季練習中の甲子園球場に背広姿で表れ、新聞記者を球場内喫茶室に招いた。コーヒーを飲みながら「健康上の問題」と突然の辞任発表を行った。2日前、球団社長・戸沢一隆に辞意を伝えていた。

 出張先東京から帰阪したオーナー(電鉄本社会長)・野田誠三は23日、辞意を了承して公言した。「鶴岡一人氏が最適任と考え、交渉します」

 鶴岡は19日限りで南海を退団していた。スポニチ本紙評論家とNHK解説者に内定し、無理が見えていた。26日、大阪・梅田の阪神電鉄本社で会談したが、鶴岡は「堪忍してくれ」と固辞した。戸沢は「まだ五分五分」と堺市金岡町の自宅まで出向く構えも見せた。

 だが戸沢は動く気配はない。毎日新聞記者だった玉置通夫が著書『これがタイガース』(三省堂)に書いている。<シビレを切らした記者が戸沢に食ってかかった。「いつ鶴岡さんのところに行くのですか。本当にやる気はあるのですか」>。

 本紙が鶴岡の評論家決定を伝えたのが11月14日付。阪神は19日、本社でヘッドコーチ・後藤次男の監督昇格を発表したが、高知県安芸市での秋季キャンプ中で本人不在の奇妙な会見だった。

 翌69年、巨人と首位争いを演じていた8月末から9月にかけ、阪神はスカウト・佐川直行や別の密使が3度、鶴岡と接触し、監督就任要請を行った。戸沢が接触したとの情報もある。鶴岡の答えは依然「ノー」である。「後藤君もがんばっているじゃないか」と法大の後輩を気にかけていた。

 この情報は外部に漏れ、野田はシーズン最終戦の10月16日、甲子園球場で「鶴岡氏と交渉を持ちたい」と公表した。

 当時、鶴岡は大リーグ・ワールドシリーズ取材で渡米中。24日に帰国したが、阪神が動いたのは11月3日だった。戸沢が午前9時40分、堺市の鶴岡邸を訪れ、1時間話し合った。鶴岡は後に「世間話をしただけ。監督就任の話なんてなかった」と明かしている。

 ともに兼任コーチだった吉田義男か村山実かとみられた新監督は11月14日、戸沢が安芸で村山を指名し、吉田は引退・退団していった。

 この「幻の鶴岡監督」について、玉置は先の書で<ワンマンだった野田の思いつき>と断じた。長年阪神フロントを支えた奥井成一は『わが40年の告白』(週刊ベースボール)で<野田オーナーはもともと村山君の熱烈なファン。かわいくて仕方なかった>と、鶴岡固辞を見込んだうえ、筋書き通りだったと指摘していた。 =敬称略=(編集委員)

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