【16年物故者追悼】豊田泰光氏の原点 運命変えた71年前の出合い

[ 2016年12月30日 11:00 ]

豊田泰光氏
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 2016年も幕を閉じようとしている。プロ野球では広島が25年ぶりにリーグ優勝。日本ハムは10年ぶりの日本一になるなど大きな盛り上がりをみせた一方で、プロ・アマ球界を支えてきた関係者の訃報も届いた。西鉄の黄金期に活躍し、スポニチ本紙特別編集委員を務めた豊田泰光さんは8月14日に誤嚥(ごえん)性肺炎のため81歳で死去。太平洋戦争直後に野球と出合い、野球に人生をささげた。

 豊田泰光さんが野球と出合ったのは71年前。1945年、太平洋戦争が終結した翌日の8月16日だった。当時、豊田少年は茨城・大子町の国民学校4年生。戦時中は「敵性競技」と非難され、体育倉庫に隠してあったバット、ボール、グラブを担任教諭が引っ張り出してきた。豊田少年はじめ子供たちは「野球やっぺよ」と大興奮。すぐに夢中になった。「平和と野球」。それが豊田さんの野球人生の原点だった。

 そんな幸福な出合いがあったから、手弁当で全国の少年野球教室に出掛けた。その中から中居殉也(金沢高―ダイエー、元捕手)らプロや甲子園出場選手も生まれた。いつも欠かさず開会式に顔を出し、福岡の子供たちを激励した「豊田杯久留米市少年野球大会」は今年で30年目を迎えた。関係者は長年の尽力を感謝し、11月の大会では「ご冥福をお祈りいたします」と書いた横断幕を掲げて追悼した。

 そんな豊田さんの遺志を継いで長男の泰由さん(57)はスリランカの子供たちに野球を教える計画を進めている。豊田さんが顧問を務めた認定NPO法人「地球市民の会」(佐賀市)とも協力して「来年2月、現地のキャンディ市に話を詰めに行く予定」と泰由さん。71年前の自分のようにスリランカの子供たちが野球と出合い、幸せになれるのなら…。今は「殿光院泰嶽真法大居士(でんこういんたいがくしんぽうだいこじ)」と名を変えた豊田さんも天国で喜ぶはずだ。 (中島 泉)

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2016年12月30日のニュース