記者に“基準”示してくれた99年夏のV腕 正田の衰えない野球への情熱 

[ 2016年8月22日 09:30 ]

2013年11月、合同トライアウトで投げる正田

 初めて甲子園で高校野球を取材したのは、1999年夏のことだった。当時は、群馬県にあった前橋支局で勤務。全国制覇した桐生第一に同行し、地方大会の初戦から甲子園決勝まですべての試合、練習も連日取材した。

 そのときのエースが正田樹だった。長身から上手から投げ下ろすサウスポーで、140キロ前後の直球に縦に大きくカーブと曲がり幅のあるスライダーが持ち味だった。甲子園出場が決まってからも、チームの前評判が高かったわけではない。それでも17歳の左腕は3完封をマークし、群馬県に初めて深紅の大旗を持ち帰った。

 正田を初めて見たのはその1年前。群馬の春季大会だった。13番を背負っていた無名の2年生左腕の腕の振りはしなやかだった。カメラで写真を撮ると、左腕は体に巻き付くようだった。直球の最速は131キロ。決して驚くような速さはなかったが、学生時代に野球をやっていた記者は「甲子園を目指す投手というのは、こういう投手なんだろうな」と感じた。

 その試合後、正田と初めて話した。「今日の試合で初めて130キロが出たんですよ」と、うれしそうに教えてくれた。そんな左腕が2年秋からエースに。高校3年生になると直球の球速も140キロに迫り、「プロ注目」と評価されるようになっていた。スカウトや学校関係者の間では「ドラフト3、4位ぐらいで指名されるのではないか?」といった情報が流れていた。

 正田は甲子園で一気に覚醒した。直球は140キロを超え、初戦で比叡山を1安打完封。ここから日本一まで駆け上がると、プロからの評価も急上昇。ドラフト会議で日本ハムから1位指名され、プロ3年目に9勝を挙げて新人王も獲得した。

 駆け出しの記者にとって、「正田の成長」は、野球選手のある一定の基準を教えてくれた。甲子園で活躍する投手とは――。ドラフト候補と呼ばれるには――。そしてプロ野球で活躍するレベルとは――。あくまでも一人のモデルケースに過ぎないが、自分にとっては貴重な出会いだった。

 その正田は日本ハムから阪神に移籍し、その後は台湾・興農、レッドソックス、BCリーグ・新潟、ヤクルト、台湾・ラミゴへ。14年途中からは四国IL・愛媛でプレーする。戦力外は実に4度も経験した。甲子園優勝から17年が経過し、さまざまな経験を重ねながら現在34歳となったが野球への意欲、好奇心は衰えていない。

 毎年オフに自主トレを行っていた鳥取の施設で出会った元中日の山本昌氏、台湾で一緒にプレーしたヤクルト・高津臣吾投手コーチらの影響を大きく受けたと聞いた。レジェンドともいえる実績十分の2人は、説明するまでもなく心身ともに燃え尽きるまで現役を貫き通した投手である。

 21日の甲子園決勝では群馬の隣県、栃木の代表校・作新学院が優勝した。地方大会からプロ注目と評価されていた作新学院のエース・今井は甲子園の活躍によって、スカウトからドラフト1位クラスの評価に格上げされることになるだろう。「そういえば、昔も(甲子園で評価を上げた)そんな投手もいましたね」。正田の野球人生も、まだまだ続きそうだ。(横市 勇)

続きを表示

2016年8月22日のニュース