【高校野球100年】悲願の始まり…第1回大会 あと1勝だった白河の関越え

[ 2015年6月9日 11:10 ]

秋田野球部の部室に飾られている第1回大会出場時の写真

 1915年(大4)に第1回全国中等学校優勝野球大会として産声を上げた「全国高校野球選手権大会」が今夏で100年の節目を迎える。数々の名勝負などを振り返りながら「高校野球100年~歴史と名シーン~」と題して高校野球の歴史を10回にわたって紹介する。初回は、100年前に10校が参加した第1回大会で準優勝した秋田中(現秋田)を中心に同大会出場校の今と昔に迫る。

 胸には丸文字で「YADOME」とあった。学校近くの久保田城の別名、矢留城が由来とされる秋田中野球部のユニホームだ。100年前の8月19日、山田中(現宇治山田)を9―1で破った秋田中は、準決勝で早実を3―1で退けた。決勝の京都二中(現鳥羽)戦は延長13回の激闘の末、1―2でサヨナラ負け。いまだに春夏通じて東北勢による甲子園優勝校は出ていない。「白河の関」の呪縛は、100年前から始まっていた。

 当時主将だった渡部純司捕手は、日本一の夢を後輩に託した。秋田高校野球部OB会「矢留倶楽部」の猿田五知夫(いちお)会長(57)は「私が現役時代ですので40年前ですね。渡部さんがグラウンドに来られて、激励していただいた」と回想する。

 「秋高(しゅうこう)魂を持ってやれ!」

 あと一歩で優勝を逃した大先輩の言葉には重みがあった。

 第1回大会は甲子園ではなく大阪・豊中球場で開催された。1915年は「野球なんて、やっている場合ではない」などと言われる時代。それでも、白球を追いかけた野球小僧らがいた。

 100年前の決勝戦。一塁を守っていた信太貞(しだ・さだか)には、サヨナラ失策した記録が残っている。1―1の13回2死二塁から二ゴロをさばいた野手の送球がそれた。その間に本塁を狙った走者を刺そうとした信太の送球が間に合わず、失策がついた。祖母・礼(ひろ)さんから、祖父の無念を聞いた孫の誠一さん(51)は言う。「実は祖父のエラーではないという話があるみたいなんです。当時は素人の方も出ていたようなので」。決勝で秋田中は7失策を記録していることからも、その証言は興味深い。

 誠一さん自身は甲子園にこそ届かなかったが、同期の石井浩郎(元近鉄)らとともに、祖父と同じ秋田で白球を追った。今年発行された秋田高校同窓会便りには「豊中グラウンドの跡地は高校野球メモリアルパークとして記念公園になっており、第1回大会のレリーフが残されている。私は息子(陽登さん)と訪れたことがあるが、祖父の名前を目にした時は、震えるほど感動した」と寄稿した。

 同校は03年夏以降甲子園から遠ざかっているが、先輩たちが築いた歴史と伝統は100年たっても色あせない。02年から指揮を執る佐藤幸彦監督は「1回目で準優勝。先輩が残してくれた課題(全国制覇)に向かって頑張るだけ」と言えば、菅原主将も「伝統の重みはひしひしと感じる。感謝の気持ちを結果で示したい」と意気込んだ。

 夏の大会を前にした6月。OBが現役選手にノックの雨を降らせる儀式は今も続いている。猿田会長は「秋高魂は脈々と受け継がれている」と節目の年に期待する。今夏の甲子園開会式では第1回大会に出場した10校の現役野球部員1人が復刻ユニホームを着て入場行進する。「1人だけではなく、全員で行進する」ことが、今夏の目標。100年前の先輩たちの思いを胸に、文武両道を貫く「秋高魂」を再現する。

 ≪三沢に磐城に…東北勢春夏10度の涙≫東北勢の決勝進出は春3度、夏7度の計10度。太田幸司を擁した三沢(青森)が69年夏に松山商と引き分け再試合の末、2―4で敗戦。「小さな大投手」の異名を持った田村隆寿がエースだった磐城(福島)は71年夏に桐蔭学園に0―1で敗れた。春は花巻東(岩手)が09年にエース・菊池雄星を軸に勝ち進んだが0―1で清峰に惜敗。また、光星学院(青森、現八戸学院光星)は11年夏から3季連続で決勝に進んだが、東北勢の悲願は達成されていない。

 ≪4年前に秋田中―山田中のOB戦で返り討ち≫第1回大会の準々決勝で対戦した秋田中―山田中のOBによる親善試合が、11年9月10日に秋田グラウンドで行われた。「宇治山田さんのOBから“100年を記念した企画があるので、賛同していただけますか?”と打診されて、OB同士でやりましょうとなった」と猿田会長。結果は14―4で秋田の勝利。100年前に続く快勝に「ホッとしました。夜の懇親会も楽しい時間になった」と振り返る。

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