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【浜田剛史 我が道5】プロスタイルで反則減点…アマ戦績6敗も本当の負けは1つ

[ 2026年1月6日 07:00 ]

高校3年時、福島インターハイのボクシング沖縄代表に(後列左から2人目)
Photo By 提供写真

 1976年(昭51)8月、沖縄水産高1年のとき、沖縄・韓国対抗戦という親善試合で韓国遠征しました。沖縄は高校生、韓国は代表クラスの一般選手で、さすがに判定負け。でも、アマチュアの6敗のうち、負けたと思ったのはこの試合だけですね。

 この大会で「やっぱりいいなあ」と思ったことがありました。高校生はヘッドギア、グローブ12オンス、1ラウンド2分。この試合はヘッドギアなし、8オンス、3分。夜の開催でお客さんもいた。グローブは軽いし、視界も広いし、雰囲気もいい。プロと同じなんですね。

 オレは世界王者になるためにボクシングをしてましたから、プロスタイルでした。当時は他の選手がめったに使わないボディーも使ったんですが、これが「頭が低い」と反則を取られる。前足より前に頭を出してはいけないと。左ストレートのボディーは全部、反則で減点されました。

 右フックも減点された。ダウンを取ると「オープンブロー」の反則。当時はプロとアマの仲が悪くて、他校の先生から「浜田はプロのジムで練習している」と嫌われたわけです。ちょっと前に話題になった「奈良判定」をよくやられましたね。

 1年のときは、興南高3年のインターハイ王者・砂川恵康に2回も判定負け。2年のインターハイ沖縄予選フェザー級決勝も下地晃彦(興南3年)に判定負け。どっちも勝ちです。「浜田を全国に出しちゃいかん」と。下地には、彼がインターハイ王者になった後に勝って、引導を渡してやりましたけどね。

 川上栄秀監督も、苦労したようです。「浜田にどんな生活指導をしてるんだ」と他校の先生に言われて「普通の高校生活させてます」ととぼけたりね。下地に負けた試合後、オレは頭にきて表彰式に出席せずに帰ったんですが、それも責められる。ショックでボーッとなり、一晩中、歩いて家に帰ったことにした。いい先生です。

 それでも、3年になると奈良判定もできない圧勝で、1978年(昭53)8月、福島県原町市(現南相馬市)で行われたインターハイ・フェザー級の沖縄県代表になりました。勝ち進んで、決勝の藤田和久(岩泉)戦は、KOしたくてガンガン攻めましたね。

 ところが、例によって2回までにボディーで反則を2回。あと1回取られたら反則負けです。沖縄県の団長が「浜田、もう打つな」と。さすがに「浜田 反則負け」はカッコ悪い。3回は手を出さずにインターハイ王者になりました。

 オレのアマ戦績は43戦37勝28KO6敗。でも、本当の負けは1つですね。ダウン取ってるのに判定負けだったり、KO勝ちを反則負けにされたり。ただ、何も感じなかった。プロでどう戦うかだけを考えてましたから。

 ◇浜田 剛史(はまだ・つよし)1960年(昭35)11月29日生まれ、沖縄県出身の65歳。沖縄水産高で高校総体王者。帝拳ジムからプロデビューし、84年12月に日本、85年7月に東洋太平洋のライト級王座を獲得。86年7月にレネ・アルレドンド(メキシコ)を衝撃的な初回KOで破り、WBC世界スーパーライト級王座を獲得した。戦績は24戦21勝19KO2敗1無効試合。現在は帝拳ジム代表。

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