×

【素顔の代表 大迫勇也】上級生いない中学で1年からサッカー漬け

[ 2014年4月30日 11:00 ]

W杯出場を目指しドイツで活躍する1860ミュンヘンの大迫

 間違いないチーム選びがFW大迫勇也(23=1860ミュンヘン)を進化させた。同級生が4人しかいない弱小チームでサッカーを始めた反動もあり、中学からは入念なリサーチの上で進路を決断。プロ、そしてW杯で活躍することを念頭に置き、プレー環境を求めてきた。

 団地内の小さな公園が練習場だった。鹿児島県薩摩半島西岸に位置する、南さつま市の万世小3年時にスポーツ少年団でサッカーを始めた大迫だが、同級生で入団したのはわずか4人。練習も週に2回程度しかない弱小チームだった。サッカーに真剣に取り組むには物足りない環境。この体験こそが逆に大迫のチーム選びに大きな影響を及ぼすことになった。

 練習がない日も校庭を使うことは可能だったが、シャイな少年は目立つことを避け、自宅前でリフティングなど自主トレを行うのが日課だった。だが、同じ団地に同級生が住んでいたため周囲にはバレバレ。同級生の山元みきさん(23=万世小教員)は「同じ学年の大半の女子が勇也君のことを好きだったので、家の前の公園でいつもボールを蹴っているのは有名でした」と証言する。

 一見、ボーッとしているが、実は論理的に物事を考える左脳派。小学生高学年時の県統一学力テストの算数は常に100点。当時からサッカーを第一に考え、炭酸飲料は口にしなかった。背を伸ばすために給食では余った牛乳をもらい2~3パックを飲むのが習慣だった。6年時には地区予選を突破したが、県大会では早々と敗退。より良い環境でサッカーをするため大きな決断を下すのは自然な流れだった。

 家族に「サッカーで勝負したい」と打ち明け、県内の強豪中学の監督や練習環境などの情報を収集した。その中で選んだのはなんと翌春からサッカー部を立ち上げる鹿児島育英館中だった。鹿児島城西高との中高一貫指導もあったが、学校選びの最大の理由は発足1年目であるため、上級生がいないことだった。当時の中学の部活動は、1年生は実力があってもグラウンド整備やボール拾いなど雑用に時間を割かれるのが主流。ボールを触ることもままならない学校もある中、鹿児島育英館中なら1年から思う存分サッカーができた。往復2時間のバス通学もネックにはならなかった。

 鹿児島育英館中では体育科に在籍。週3回は午後の授業がサッカーの練習に充てられサッカー漬けの日々を送った。鹿児島県内ではプロサッカーの試合を見られる機会がほとんどないため、修学旅行の日程にJリーグ観戦が組み込まれるなどカリキュラムもサッカー中心。その修学旅行で大迫はJ2横浜FCのカズのプレーを目の当たりにしオーラに感動してプロになる決意は強くなった。

 存分にプレー機会を与えられた大迫だが、気を抜けば“逆療法”を施された。中学2年時にトップ下からセンターFWにコンバートされて頭角を現した。一方で同級生とのプレーに物足りなさを感じ、練習で集中力を欠く場面も見られるようになった。大平義幸監督(33、顔写真)は「2年生ぐらいからは飛び抜けた存在になり余裕を持ってプレーしていた。いかに刺激を与えるか、そこは苦労しました」と回想。集中力を欠いたプレーを見せれば大迫を練習から外して部室に閉じ込めて猛省を促した。理由を伝えずに1カ月近くも試合で起用せずに、反骨精神をあおった時期もあった。指導者もまた、大迫のサッカーへの情熱を引き出し成長を後押しした。

続きを表示

2014年4月30日のニュース