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ピッチを去る名リベロ 田中誠「磐田で出会った人たちと、また仕事を」

[ 2011年12月10日 08:14 ]

18年間の現役生活に別れを告げ、第二の人生について語る田中誠

 長きにわたってJリーグを盛り上げた福岡の元日本代表DF田中誠(36)が、ユニホームを脱ぐ。磐田時代に黄金期を築いた名リベロは、18年間のプロ生活に未練はないと言い切り、来年からは評論家として第2の人生を歩み出す。

 磐田がJリーグに昇格した94年に清水商から磐田入り。96年アトランタ五輪で“マイアミの奇跡”を起こすなど、歴史にその名を刻んだ田中の現役生活は18年に及んだ。

 「覚悟はできていた。昨年、福岡がJ1に昇格しなかったら、そのときに辞めていた。だから今季は最後と決めていた。44歳のゴンさん(J2札幌FW中山雅史)や40歳の俊哉さん(J2千葉MF藤田)。磐田の先輩たちと順番は逆になったけど、あの人たちだから仕方ない。ボクは気持ちの面で限界だった」。

 磐田で3度の年間優勝を果たす一方、悲劇の数はそれ以上だった。02年W杯日韓大会直前のケガに続き、06年W杯ドイツ大会は日本代表に選出されながら、現地での直前合宿中に負傷。「ボクがいたらチームのみんなが気を使う」と開幕前に帰国を決断した。磐田が残留争いに巻き込まれた08年オフには突然の戦力外通告。「自分自身は磐田で終わりたかった。でも、世代交代も進む中、受け入れなければならなかった」。

 磐田での最後の2年間は、子どもの小学校進学のため、家族は都内に引っ越し。自身は浜松で単身生活を送った。だが福岡移籍が決まると、家族と一緒に生活することを決めた。「さすがに福岡は遠い。自分も家族も、一緒に過ごすことが必要な時期だった」。

 移籍1年目。ゴールポストに激突し、下顎などを骨折する大ケガを負って1カ月間の入院生活を余儀なくされたが、見舞いにくる家族の存在が大きかった。退院後も恐怖心と戦いながら、家族と接して復帰への意欲を湧かせた。そして10年J2で3位となり、福岡のJ1昇格に貢献した。

 来年からは都内を拠点に、評論家としてサッカーに関わっていく。指導者ライセンスもB級まで取得しており、今後は指導者として現場復帰する道も模索する。「磐田でいっぱい優勝できたし、いい時代を過ごせた。引退を決めてから印象に残っている試合は?と聞かれるが、これって決められない。幸せですよね。今後は磐田で出会った人たちと、また仕事ができれば」と18年間の経験を生かした第2の人生をスタートさせる。

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2011年12月10日のニュース