【ダービー】“ファイター”田中剛師が語る ロゴ2冠のために…

[ 2013年5月22日 06:00 ]

2冠は目前の田中剛師とロゴタイプ

 障害ジョッキーからダービートレーナーへ。「第80日本ダービー」で2冠を目指す皐月賞馬ロゴタイプの田中剛調教師(52)は異色の経歴を持つホースマン。ボクシングでハートを鍛え、障害レースで胆力を示してきた“ファイター・ツヨシ”が自らの生い立ちを語った。

【ダービー】

 研ぎ澄まされた馬体と闘争心を宿した目。馬房にたたずむロゴタイプに田中剛師は頼もしげな視線を向けながらこんな例え話を口にした。「アスリートに大切なものはね、筋肉ともう一つ。強いハートです。ボクサーでいえば、大場政夫、井岡一翔、長谷川穂積…。ビッグタイトルを戦い抜くには強い気持ちがないとね」

 騎手時代の腹の据わった騎乗ぶりから、“ファイター・ツヨシ”がニックネーム。その触れると火傷するほど熱いハートはボクシングで鍛えられた。父・敏朗さんは元世界フライ級1位のプロボクサー。引退後に経営した都内のボクシングジムで剛少年は闘争心を叩き込まれた。小学校から下校すると、サンドバッグを叩かされる毎日。「猛烈なスパルタ親父でね。村山貯水池に連れて行かれたこともあったなあ」。父親の肩車に乗って足の立たない貯水池の下流まで進むと、いきなり突き落とされた。水面でもがいていると、親父の声が聞こえてきた。「自力ではい上がれ!」。後楽園ホールで見てきた世界フライ級チャンピオン、大場政夫のようなプロボクサーになるための愛のムチだと思っていた。

 だが、中学入学の目前に突然、進路を変える。父・敏朗さんの後援会長で、JRAの馬主でもあった中内佐光氏(70年中山記念優勝アカツキのオーナー)が父親にこう告げた。「体が小さいからボクサーよりも騎手にした方がいいな」。北海道・浦河の辻牧場に送り出された。馬のイロハを学びながら浦河第二中学を卒業し、79年騎手デビュー。98年に史上2人目の平地&障害100勝を達成したが、落馬事故も無数にあった。09年に頸椎(けいつい)を負傷し、医師の強い引退勧告で後ろ髪を引かれながらムチを置くまで30年間で14回もの手術をした。

 「勉強が嫌いでこの世界に入った」と頭をかく同師。机にかじりついて調教師試験を12回も受験した末に“オンリーワン”のトレーナーになった。平地の競走馬にも障害を飛ばせてゲート難を解消する。障害用の横木(おうぼく)をまたがせて人馬の絆を深める。元障害騎手ならではの独自の調教法を駆使して10年秋の開業から2年半で重賞9勝。そして、サラブレッドの頂点へ。「ダービーのゴールは障害を10個飛んだ先にある。途中で落馬したり怖がって逃げたら、それでおしまい。1個ずつ腹を据えて飛ばせていく」。ボクシングとジャンプに育てられたファイターの挑戦が続く。

 ◆田中 剛(たなか・つよし)1961年(昭36)2月13日、東京都生まれの52歳。79年に柄崎義厩舎所属で騎手デビュー。09年引退まで通算364勝(うち障害207勝)。10年調教師に転身し、ロゴタイプ、マジェスティバイオ、フェデラリストで重賞9勝(G1・4勝)。

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