日本ハム・鶴岡 涙の引退会見 19年のプロ生活に幕…「今はやり切った気持ちでいっぱい」

[ 2021年12月14日 05:30 ]

質疑応答で涙をこらえる鶴岡(撮影・高橋茂夫)
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 今季まで日本ハムでバッテリーコーチ兼任でプレーした鶴岡慎也捕手(40)が13日、札幌ドームで会見を行い、今季限りでの現役引退を表明した。コーチ兼任3年目の今季はわずか13試合の出場。球団からは来季コーチ専任での契約を打診されたが、現役続行を希望して退団した。獲得に興味を示す球団が現れず、19年のプロ生活に終止符を打った。

 節目の20年を前に、無念の思いも当然ある。鶴岡は会見中、19年間のさまざまな思い出が頭をよぎり、何度も目頭が熱くなった。それでも全うした思いがあるからこそ、1メートル76の小さな大捕手は胸を張って言った。

 「ここまでやりたいとかいろいろあったけど、今はやり切った気持ちでいっぱい。子供の時にプロ野球選手を目指し、常に夢の中で野球をやっているような感覚だった。本当に夢のような素晴らしい時間でした。本当に自分自身に“ご苦労さん、よく頑張った”と心から言えます」

 プロ19年で「1回もレギュラーを獲ったことがない」という。それでもここまでプロ生活を続けてこられたのは、地道な準備の積み重ねだった。「準備を怠らないことが自分との約束」。体のケア、データ分析と「グラウンド外の時間を誰よりも長く取ってきた。それが40歳までできたことかな」と分析した。

 ダルビッシュ(現パドレス)の日本ハム在籍時には専属捕手を務め、「ダルの正妻」とまで言われた。思い出の投手にはやはり後輩右腕を挙げ「ダルビッシュ投手がいなければ、僕はここにいなかったと思う。彼には本当に感謝している」。引退を報告すると「ありがとうございました」と感謝を伝えられたという。

 東京ドームを本拠としていた02年ドラフトでの入団。99年ドラフトで入団した同学年の田中賢介(現球団スペシャルアドバイザー)が19年に引退し、鶴岡は「東京戦士」の最後の砦(とりで)だった。1軍初出場が北海道移転後の05年とあり「東京ドームで一試合も出ていないのでピンとこない」と苦笑いだったが、一つの時代が幕を閉じた。

 14年からソフトバンクに移籍したが、18年に復帰。北海道を愛し、ファンに愛され続けた背番号22が惜しまれながらユニホームを脱いだ。(東尾 洋樹)

 【鶴岡に聞く】

 ――印象に残っていることは。

 「06年の日本一。自分も1軍に定着して初めての年だったので、がむしゃらに1試合、1プレーに命を懸けてやっていた。その結果、ファイターズが北海道に根付く1ページでもあったので、そこに立ち会えて幸せ」

 ――北海道のファンはどんな存在か。

 「鹿児島出身の僕がまさか北海道に住むとは思っていなかった。北海道の皆さんに育てていただき、これほど心強い存在はいなかった」

 ――感謝を伝えたいのは。

 「一番感謝するのは両親と妻。結婚してから成績も伸びたし、両親は強い気持ちを与えてくれた」

 ――ダルビッシュと組んで大変だったこと。

 「球を止めること。ダルの球が一番の練習だったので、本当に成長させてもらった。米国にパドレスと(大谷が所属する)エンゼルスの試合を見に行きたいな」

 ――今後について。

 「いつかはユニホームを着たい思いはある。声を掛けてもらえるように活動していかないといけない。野球を勉強し続けるのは生涯変わらない」

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