【内田雅也の追球】西本幸雄「人生最大の転機」とは?

[ 2020年9月29日 08:00 ]

少年時代の西本幸雄氏(右から2人目)。自宅縁側で、左から次姉・美代子、長兄・義治、次兄・実、父・義彦、幸雄、母・セキノ=遺族提供=
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 生誕100年の記念イベントを前に、西本幸雄さんが生まれ育った当時を書いておきたい。生前、ずいぶんと聞かせてもらった話である。

 今から100年前、1920(大正9)年4月25日に生まれた。3男2女の末っ子、関西弁で言う「おとんぼ」だった。

 元は農家。父・義彦は農作業を使用人に任せ、日本勧業銀行に勤めた。無口で勤勉だった。家は今のJR和歌山駅に近い和歌山市吉田にあり、300坪(約990平方メートル)以上の広さがあった。

 宮北尋常小学校(現宮北小)時代の遊びは野球だった。2歳上の次兄・実が教えてくれた。

 やんちゃで、けんかは負けたことがなかった。一緒に和歌山を訪れた時のこと。車がインターを下り、左手に通称・花山が見えると「あ~、懐かしい」と声が漏れた。小高い山でカブトムシがよく捕れた。ある夏の日、他校の上級生と鉢合わせ、一戦交えて領有権を得た。戦利品の虫を友人たちと分け合った。

 毎晩10時消灯だった。ふとんに入ると、枕元で母がよく「大学に行くんだよ」と説いて聞かせた。13歳上の長兄・義治は早稲田大、次兄は後に慶大に進んだ。2人の兄同様に和歌山中(現桐蔭高)に進むのは当然という雰囲気だった。名門の和中は難関で同じ小学校から受験したのは2人、西本さんだけが合格した。

 入学後、野球部から誘われたが、両親にも言えず、あきらめた。野球も名門で、夏の全国大会はこの当時すでに第1回から連続14回を含め18回中16回出場。春夏3度の全国優勝を果たしていた。「母親の“大学に”の言葉もあり、勉強が気になったことはある。それ以上に、あまりの名門で尻込みしたんや」

 後の闘将とすれば意外な答えだった。3年でラグビー部に入り、団体競技の楽しさを味わった。4年生になり、新チームでスタンドオフのポジションが約束されていた。

 そんな時、野球部は夏の和歌山県予選の初戦で敗退した。5年生が引退すると、残る部員は5人という存続の危機に陥った。学校、後援会は部員集めを始め、月1度開催されていた校内軟式野球大会のプレーぶりから強く勧誘された。ラグビー部からは引き留められたが、伝統ある野球部とでは結果は見えていた。やむなく野球部に入ることになった。初めて硬球を握ったという次第だ。

 「長いこと生きたなあ」という西本さんから晩年、「人生には多くの転機があった。オレの人生で最大のものは何やと思う?」と問われた。戦後、復員後の選択だと答えたが「違うな」という。

 「和中の野球部入部や。あれがなかったら、後のオレはなかった」

 確かに、野球人・西本の誕生したわけである。1936(昭和11)年8月のことだった。=一部敬称略=(編集委員)

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