【猛虎最高の瞬間(1)】巨人相手に独り舞台でつかんだ 若林忠志の233勝目

[ 2020年5月25日 08:00 ]

監督兼投手の若林忠志(右)と主将・藤村富美男。1949年ごろ=若林忠晴氏所蔵=
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 阪神は今年、球団創設85周年を迎えた。その間、あまたの名選手たちのプレーが、歴史を彩り、伝統を紡いできた。創刊72年目のスポニチでは過去の大阪版紙面を掘り起こし、偉大な猛虎戦士たちが阪神で打ち立てた「猛虎最高記録」とその瞬間に迫る。第1回は若林忠志投手(当時41)が球団最多233勝目を挙げた1949年10月8日の巨人戦にスポットライトを当てる。

【1949年10月8日 阪神2―1巨人】
 今からさかのぼること71年前。同年2月1日に大阪で創刊したばかりの当時のスポニチは、わずか4ページしかなかった。その二面右上に、お目当ての記事は見つかった。甲子園球場で行われた阪神―巨人戦の詳報だ。文中には当時から「ドル箱カード」「伝統」の文句が躍る。ただペナントレースは巨人が首位を独走しており、「観客は僅か六、七千ぐらい」(原文ママ)とあった。この日の試合前時点で巨人と阪神のゲーム差は、20まで広がっていた。その一戦で、「猛虎最高の瞬間」が訪れる。

 阪神の先発マウンドに上がったのは若林忠志だった。当時すでに41歳。そのベテラン右腕が、永遠のライバル相手に快投を演じた。

 試合展開を追う。若林は3回、巨人の2番・白石勝巳が放ったライナー性の打球を右翼手・別当薫が目測を誤って二塁打にするという拙守にも足を引っ張られ、先制を許した。それでも4回以降は立ち直り、1点を追う7回には藤村富美男の左越え39号ソロで同点に追いついた。援護射撃に力をえた若林は力投を続け、10回まで被安打7、7奪三振、1失点。巨人の中軸である3番・青田昇、4番・川上哲治を8打数無安打に封じるなど要所を締め、最少失点で計149球を投げ抜いた。

 そして10回裏。今度は若林がバットでも魅せた。1死一、三塁の好機で打席へ。ということは、11回も登板するつもりだったのだろうが、その必要はなかった。相手2番手・藤本英雄が投じた2ボールからの3球目を打ち返した打球が、遊撃頭上を超えるサヨナラ打となったからだ。試合時間1時間44分の激闘はまさに若林の独り舞台。当日の記事も「この日殊勲者は巨人を散発7安打に抑え三振7個を奪う好投の一方決勝の一点を叩き出した若林だつた」(同)と締めくくられていた。

 この勝利が、このシーズン最終勝利となる15勝目。若林は翌50年からは2リーグ分裂にともなって誕生したパ・リーグの新球団・毎日(現ロッテ)へ移籍したため、阪神での最終勝利でもあった。この1勝こそが、70年の時をへても破られていない、「猛虎最高」の233勝目だった。(惟任 貴信)

 ◯…猛虎最多勝利投手の若林は、もう一つの「猛虎最高記録」も保持している。与四死球数だ。その最高記録に到達したのも、49年10月8日の巨人戦だった。4番・川上哲治、7番・手塚明治に計2四死球を与え、通算1007与四死球(四球975、死球32)。とてつもなく多い数字に思えるが、阪神通算501試合登板3456回2/3投球回で9イニングあたりに換算すると与四死球率は2・62で、逆に制球力は高かったことが分かる。

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