内田雅也が行く 猛虎の地(18)大阪テレビ 「騒動」最中のテレビ「野球教室」

[ 2019年12月26日 08:00 ]

関西初の民間放送局として開局した大阪テレビ放送の社屋。堂島川北側に社屋があった(58年2月)
Photo By スポニチ

 【(18)大阪テレビ(大阪・堂島)】

 関西初の民放テレビ局だった大阪テレビ放送(OTV)の本放送は1956(昭和31)年12月1日に始まった。

 大阪に割り当てられたチャンネル2枠はNHKと、残る1枠をラジオ局の新日本放送(NJB=今の毎日放送)、朝日放送(ABC)、さらに毎日新聞、朝日新聞が共同で免許を取得した。<朝日と毎日の歴史的合弁>と演芸番組ディレクター・川崎隆章の『まぼろしの大阪テレビ~1000日の空中博覧会~』(東方出版)にある。

 社屋は黄色と黒に彩色され、地上4階、地下1階、大阪・堂島に建てられた。直前までは進駐軍拘置所だった。今のANAクラウンプラザホテル大阪の場所である。

 開局時の番組に阪神電鉄提供、阪神タイガースによる『野球教室』があった。毎週金曜夜9時からの15分番組。56年12月7日に第1回が放送されている。なじみ深い日本テレビ(NTV)『ミユキ野球教室』(57年3月17日初放送)よりも早いスタートだった。

 阪神球団『タイガース30年史』(64年3月発行)に当時の番組収録を写した写真が掲載されている。スタジオに背広姿の監督・藤村富美男、コーチ・御園生崇男、2軍監督・河西俊雄が並んでいる。河西がボードを使ってフォーメーションを説明する様子もある。

 ただ当時、阪神では大変な騒動が起きていた。11月11日、マネジャー兼スカウト・青木一三と金田正泰ら選手12人が「藤村監督退陣要求書」をオーナー・野田誠三に提出。12月30日の和解まで50日以上に及んだ「藤村監督排斥事件」である。

 番組に出演していた河西俊雄は<感情論にぶれることなく、淡々と任務を遂行し続け、中立の立場を貫いていた>と澤宮優『ひとを見抜く』(河出書房新社)にある。連日、騒動が報道されるなか<静かに新聞を閉じて、仕事に出かけるのが彼の習慣だった>。

 反藤村派の真田重蔵は解雇となり、スポニチ本紙評論家に就いた。本紙に寄稿していた大井廣介によるとOBの松木謙治郎から「真田をスポニチで取ってくれんか」と依頼があった。OTV初のプロ野球中継となった57年3月3日の阪神―毎日定期戦(甲子園)では解説を務めている。

 『まぼろしの――』には全番組表があり『野球教室』は大阪厚生年金病院院長・清水源一郎による「野球医学」、セ・リーグ公式記録員・中川金三による「ルール特集」など内容は多岐に及んでいる。58年2月28日まで全70回放送された。

 OTVは当時不可能とされたヘリコプターから実況、富士山頂から生中継などで話題を呼んだ。59年2月、朝日放送に吸収され、2年半で役目を終えた。=敬称略=(編集委員)

続きを表示

この記事のフォト

2019年12月26日のニュース