松井氏 12年ぶり巨人「55」で4の4!“大嫌い”遠山打ちで打点も

[ 2014年11月17日 05:30 ]

<巨人―阪神OB戦>3回2死一塁、松井は3安打目となる左前打を打ちはにかむ

巨人―阪神OB戦 巨人10―0阪神

(11月16日 コボスタ宮城)
 巨人の背番号55が、そのバットで被災地に勇気をもたらした。巨人OBの松井秀喜氏(40)が16日、コボスタ宮城で行われた「東日本大震災復興支援 巨人―阪神OB戦」に「3番・右翼」で出場。4打数4安打1打点と大暴れした。2回には「松井キラー」のサウスポー・遠山奬志氏(47)から特大の右越え二塁打。幾多の名勝負を繰り広げたライバル相手に「巨人の松井」として12年ぶりの試合出場を果たし、主役を演じた。

 確かな感触が手元に残った。もちろん、2万4528人のファンも確信した。2回2死一、三塁で迎えた第2打席。だが、ゴジラが放った大飛球は、思い通りの放物線を描かなかった。右翼スタンド1メートル手前でワンバウンドし、フェンスに当たる適時二塁打。松井氏は、はにかんだ。

 「打った瞬間は行ったかなと思ったけど、現役の頃とは違いますから。もうひと伸びするパワーは残っていなかったですね。一番よく捉えたのはあの打席だけど、一番“現役じゃない”と痛感したのもあの打席」

 マウンドの投手は「松井キラー」として名をはせた遠山氏だった。99年は13打数無安打に封じられ「顔も見たくない」と話したこともあった。第1、第3、第4打席も安打し、4打数4安打。久保田智之氏以外の3人とは現役時に対戦があり、投球フォームの印象を問われると「あまり変わっていない。おなか回り以外は。人のこと言えないけど…」と笑わせた。

 巨人のユニホームを着て試合に出るのは、02年11月の日米野球以来12年ぶり。伝統の一戦で背番号「55」がよみがえった。周囲は王貞治氏、江夏豊氏をはじめ、そうそうたる顔ぶれ。「日本のプロ野球の歴史をつくってきた2球団。これだけのメンバーがそろうチームはなかなかない」

 重みを感じつつも、らしさは健在だ。移動時の混乱を考慮し、球場到着は他の選手よりも2時間以上遅い朝10時55分。斎藤雅樹氏に「相変わらず遅いな~」とちゃかされると、「遅刻王」の異名を取った巨人時代さながらに「いや。早い方、早い方」とやり返した。

 12日に米国から帰国したばかり。日米野球のテレビ解説など多忙さもあり、時差ボケと風邪による体調不良を抱えていたがおくびにも出さなかった。指揮を執った王氏からは「松井君が出てくれて本当に盛り上がった。ホームランになってほしいと思ったけど、さすがだね。最長不倒だよ。お客さんも喜んでくれたのではないかな」と賛辞を贈られた。復興支援のための試合出場を快諾し、プロ入り以来初めて仙台の球場でプレー。最も大きな声援を受けた。

 松井氏は柔和な笑顔を絶やすことはなかった。「東北の方々が見て喜んでくだされば、それが一番です。つらさは経験した人しか分からない。(復興が)いい方向に進むことを祈るだけです」

 初冬を迎えた杜の都に、心躍る一日を届けた。

 ≪松井氏の阪神戦メモリアル≫

 ◆プロ初の甲子園 93年3月14日の阪神とのオープン戦に「1番・中堅」で出場。星稜時代の5打席連続敬遠以来の聖地だったが、ノーヒットに終わる。

 ◆プロ初の三塁打 94年4月24日、郭李(現21U台湾代表監督)から左中間フェンス直撃の快打。プロ通算265打席目で初の三塁打だった。三塁に滑り込み、両手で珍しくガッツポーズ。

 ◆敬遠再び 97年9月23日、甲子園での試合で2敬遠を含む4四球。「敬遠?仕方ないですよ。相手も左投手を出すよりはね…」と恨み節はなし。

 ◆怒りのサヨナラ打 99年5月29日、9回にサヨナラの三塁打。5回にメイから右肘に死球を受けると、珍しく怒りの表情でマウンドに歩み寄る場面も。

 ◆節目の1本 99年9月21日、3回に右翼へ38号2ラン。25歳3カ月と清原に次ぐ史上2番目の若さで通算200本塁打に到達。

 ◆阪神戦でのラストアーチ 02年9月23日、甲子園でシーズン44、45号を連発。オフに大リーグ・ヤンキースに移籍したため、阪神戦での現役最後の本塁打となった。

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